【再掲】「成人の日」だから思い出す話

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今年は各地で成人式が「二十歳の集い」と名を変えて開催されているとのこと。

行動規制も緩和されている中での開催は、さぞ華やかににぎわったことだろう。

 

そんな華やかさがあふれるそんな日に、大して面白くも華やかでもなく、アラフィフに足を突っ込んだ人間の成人式にまつわる話など需要はないだろう。

ただ、私自身としては相当気合の入った渾身の記事。自分自身の気持ちの供養のつもりで昨年書いたのだが、正直余りにも反応が薄く、それはそれでがっかりしてしまった。

だからというわけではないが、今年は恥を忍び、改めて再掲させて頂く。

 

参加しなければそれでもいい。でも、どうしても参加しなければならない「義務」が発生してしまったがために迎えてしまった悲しき成人式。

 

「こうした成人式を迎えた人間もいる」という成人の日の叩き台になれば、私の経験も浮かばれると思っている。

 

hapasasa.hatenablog.jp

 

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御神籤の言葉

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あけましておめでとうございます。
本年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。

 

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新年は、新年は地元の氏神様と私自身と旦那さんがそれぞれ縁ある神社の3社参拝に回った。
毎月の1日、15日参拝は大体欠かさないが、新年最初の参拝はやはり心持ちが違う。天候もよく、よい参拝であった。

 


そこで引いた御神籤の裏に書かれていた「神の教」が新年にふさわしく、強く心に響いたので、ここで紹介しようと思う。

 

名も知らぬ路辺の草もほどほどに、己がつとめと花は咲きけり

十人十色、人にはそれぞれ神様から与えられた天分がある。

人を見下したり妬んだりする事は、自分の心を干上がらせ大切な心根を枯れさせてしまう愚かな事である。

神様の御心に叶うよう、己の職務を日々真面目に努めて、腕を磨き心を耕し、大地に逞しく根を張れば、必ずや倖せの花咲く時が訪れる。

人間として生きていく上での基本中の基本のように思う。しかし、生きる上で心がけようとしても、つい自分の心から零れ落ちてしまうようなことでもある。

 

「神様から与えられた天分がある」
「自分の心を干上がらせ大切な心根を枯れさせてしまう」
ものすごく自分自身の中で腑に落ちすぎて、魂に封蝋でスタンプを押されたかのように、はっきりくっきり心に刻まれてしまった。

 

どうあがいてもできることは限られるし、妬み嫉みで何か成しとげられるわけでもない。何者にもなれない、いち小市民の私はただ、この場所で実直に生きてくしかないのである。

 

「今-ここ」というブログのテーマに相応しい御神籤を引いたな、と染み入る気持ちでつい眺めてしまう。

 


昨年は色々と(私にすれば)手を出しすぎた点が多かった。
心機新たに、この御神籤裏の言葉通り、身の丈を重んじ・背伸びをせず・実直に生活を重ねていければ、と思う。

 

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毎年おまけの付いた福神籤を引いている。今年は弁財天。

年の瀬総括もできぬまま。

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あれやこれやで年の暮れ。
まともに更新できないまま、1年が終わろうとしている。

 

ブログ更新を止めざるを得なくなった原因でもある「通算n回目のぎっくり腰」。
11月の初めに引き起こしてから2か月経過している。


週2のリハビリとすき間時間のウォーキングとストレッチで、痛みそのものはかなり落ちつき、ぎっくり腰発症前と変わらない位にはなった。

痛みが引いたので、リハビリも年内中に納めることができるかと思っていた。
が、思う程「筋肉の硬さ」が取れない為、予防医学の観点から少なくともあと1か月通うことになった。
また痛くなって駆け込むより、定期的な日々の運動習慣を意識に着けさせる方が良いという考えの下の評価診断の結果。つくづく良い病院に通っていると思う。

 

そういうこともあり、いつになくセルフストレッチを頑張っている。
1日おきになるときもあるが、座る時間を減らすように細切れでもストレッチをやるようにしているし、何より30分程度を毎日とはいわ言えないが、回数を増やして歩くようにしている。

 

1か月程続けているが、体力は確実に少しずつだがついてきている感じがする。
「余力」が少しは出てきているのだが、この年の瀬で出来た「余力」は全て家事に注きこむことになってしまって、「ブログはこのありさま」なのである。

 

家事ができることはよいことなのだが、ブログは締まらないまま。
ちなみに正月に向けたおせちもどきもようやく作りあげ、夕飯として年越しそばをすすり、このブログを書いている。

 

 

本来なら、今年良かった映画や本であるとか、買ってよかったものだとか、今年の総括などを綴りたいところだが、いかんせん数時間で一年が終わってしまう。

 

とりあえず、今年は色々と「向き合うこと」が多い一年だった。
自分と向き合うことは正直ライフワークのようなものなのだが、旦那さんの存在を介して実家家族について見つめ直すことになった。
そのことは、自分に向き合うことにもつながり、腑に落ちることも多く、思わぬ収穫になった。
それが今年の前半。今年の後半は自分の身体に向き合うことになる。色々の顛末の末のぎっくり腰である。

 

今年の最後にうだうだ綴ってしまっているが、数時間後の来年も変わらず自分に向き合い、今年以上に「痛みのない身体作り」を無理しない程度にやっていく。

 

……つもりである。

 

 

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何はともあれ、当ブログにお越しくださった皆様、ありがとうございました。
来年も変わらずお越しいただけると幸いです。

引き続き、よろしくお願い致します。

ぎっくり腰÷(リハビリ筋トレ+「運動」)=余力ナシ

しばらく書けずにいたブログ。

全ては「n回目のぎっくり腰」で身動きがまともにとれなかったため。

で、ようやく動けるようになった!
……かと思えば、筋トレ込みのリハビリの日々。

 

40歳以降の筋力・体力低下が著しいことを自覚して、実は半年前から週1で公共のトレーニング室に通っている。
しかし、自転車こぎとクロストレーナー中心のトレーニングでは気安めでしかなかったのかもしれない。


リハビリに通う度、自分の「身のだらしなさ」を徹底的に突きつけられる。
「いよいよ日常生活の中に『運動』を取り入れるようにしなければならない」ということがはっきりくっきり。そうしたこともあり、重たい身体を引きずり出さざるを得なくなった。

 

週1の筋トレジムは、一旦週2のリハビリに置き換わり、ほぼ毎日30分程度のウォーキング。荒天時はやらないが、余力があれば1時間。念入りに行うストレッチは適宜。運動後と寝る前は必須。

 

本当に身体作りをしなければ、ブログすら書けなくなる。
そう思い知ったので、「運動」をやりはじめたものの、ブログの下書きのための走り書きすらする余力がない位になってしまっている。

 

何かをやりはじめて、自分の中にうまく習慣として定着してゆけば、走り書きの余力もできるだろうが、今はその余力を絞りだす「余力」すら残っていない。
絞りだす余力があるなら、日常生活をまわす方に向ける必要がある。よってこのありさまである。

 

クセ強めの両親の血を引き継ぎ、彼らほどではないものの、その素養を組み込んでしまっている私の宿命みたいなものかもしれない。それ以上に、そもそもの体質が器用じゃないから仕方ないところがある。

 

 

とりあえず、今は身体作りに全振りするしかないのは確かなのだ。

ラクに書けるかわからないが、「私が」ラクに書ける方法

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先日、はてなブックマーク経由でこういう記事を見つけた。

www.yururimaaruku.com

記事で取りあげられている本は、特にブロガー界隈でとても良く知られた名著と名高い。

私も辺境ブロガーの一人として、文章術の本や記事はそれなりに読んできた。
しかし、この本は読んでみたいと思いつつ、まだ読めず・買えずにいる1冊である。
ただ、こちらの記事を読む限り「何気に似通っているようなことをやっているかも」と思い、妙に変な自信を得たところだ。

そう思えるのはこの記事を読み、実際この記事を元に継続しているからである。

media.lifull.com

昨年、はてなブックマークで見かけた記事だった。

「まず、とにかくバーッっと書いてみる」

確かにそうかもしれない。
この記事の中で言及されているように、私自身が「人に読まれること」に囚われ過ぎていてまともに書けないことの方がはるかに多かったのだ。(特にブログ立ち上げ当初は収益化を意識していたので尚更である。)


そんな中でこの記事を読み、「直接PCに向かうよりも思いの丈を著しやすいかもしれない」と思い立つ。
敢えてノート等は準備せず、処分しきれていなかったカレンダーの裏につらつら書き始めた。
すると、思った通り。手書きで文章を書いているとウソのように文章が捗るのである。

 

滞りがちだったブログの更新が、月2,3本は確実にできるようになった。
ネットに上げる記事は一応選抜しているので、実際はその倍とはいかなくても1.5倍くらいは書いている。
その位、割と数を書けるようになったという実感がある。

 

手書きの何がよいかというのは、やはり始めからキチンと書かなくていいこと。
後からPC(スマホ)上で修正・肉付けしていけばよいからだ。
それ以上によいのは「文章に気持ちを乗せやすい」ということだ。只々ペンの走るままに著しているのだから、当然である。
PC(スマホ)にデータとして移すと、一読者として客観的に眺められるので修正加筆もやりやすい。
「なんでこんな単純なことで…?」と思うが、意外とそうしたものである。

 

手書きで著すのはよいが、問題は裏紙に書いた「手書き文字の取り込み」である。
始めのうちは、ご丁寧にワープロ検定さながらの手入力をしていた。時代は21世紀を超え令和である。時代錯誤も甚だしい。
そんな20世紀に取り残されたかのような私の様子を見かねた旦那さんが、「今は文字認識のいいアプリが色々出てるから、そういうの使った方がよくない?」と提案して貰い、半信半疑で使うようになった。

多少のエラーはあるものの、ほぼ誤差なく認識してくれる。只々極楽。手入力とは何だったのか。技術の発展、そしてAIの普及とは素晴らしい。
バカでかいスキャナーで認識していた○年前とは大違い。しかもアプリは無料。手書き派には願ったり叶ったりだ。(あとは自分の字を走り書きではなく、丁寧に書けばより読み込み精度はさらに上がり楽ができるだろう。)


イマイチ書いて楽しくないし、書けないと思っている方がいるとしたら、だまされたと思って「手書き」を試してみてほしい。文字認識アプリがいろいろ出ているので、自分の合うものを探してみたらよいと思う。

因みに私が使っている文字認識アプリはこちら。

撮るだけ文字認識

撮るだけ文字認識

  • Takashi Tomoto
  • 仕事効率化
  • 無料

apps.apple.com

play.google.com


データとして取り込んだ文章は、おなじみ「Evernote」を使っている。

 

「人のため、世のため」に発信しようと思うと気負ってしまうと、なかなか書けないものである。前述通り、収益化のための記事を書こうとしていた私もそうだった。
このあらゆる「ため」は後からついてくるものであって、その前に、「文章を自分が書きたいと思えること」「文章を書くこと自体が楽しいと思えること」が大前提ではないかと思っている。

 

以上が「私がラクに書ける」と思う方法である。
まあ、紹介してみたものの、実にありきたりで全く変わり映えしない。ベタ過ぎるくらいベタである。
少しでも期待してくださった方には本当に申し訳ない。ごめんなさい。

 

ただ、どの文章術の本にも書かれていることは、結局は「とにかく書く」ということ。これに尽きるのだ。
迷ってる方、悩んでいる方。とりあえず深いことは考えず、チラシの裏でもいいので、まず書いてみることを全力でお勧めする。

 

「気持ちの乗った文章」は、必ず誰かの元に届くはずだから。

 


因みにキャッチアップ画像は、この記事の手描き文章を使っている。余りにも走り書きが過ぎるのでモザイク処理をせざるを得ない……。

【若干ネタバレ】映画「アイ・アムまきもと」で死ぬこと、生きることを考える

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自分が死んだ後のことを考えて生きる。できそうでできないことだ。

しかし牧本は、市役所の「おみおくり係」で多くの孤独死の現場に立ち合い、弔い、その亡骸を預り、最後の最後まで死者に寄り添う。
自分が死んだ時のことを考え、自身の墓地の準備すらきっちり行っているという、そんな男が主人公の映画だ。

 

その「おみおくり係」の職務内容は、ふわっとした係名からは、到底想像できない。
惨憺たる孤独死の現場を淡々と調査し、背景を探ること。そして必要な情報と遺品をかき集め、自分なりに整理すること。それが牧本の主な仕事である。

本来なら、調査が済んだ遺骨は速やかに納骨堂に収める事ととされているが、牧本はそうしない。
自費で葬儀を手配し、きっちり弔う。挙句、遺骨引き取りを遺族に断られても、引き取ってもらえるかもしれない「いつか」を目一杯遺骨と共に待つ。そういうことが平気できるし、むしろ待つものだと思っている。

それが「牧本」という男である。

 

特に映画内で言及されない。しかし誰がどう見ても、彼の特性は明らかにASDだとわかるだろう。
勤務先ではその特性を把握した上で、牧本に「おみおくり係」という仕事を与え、たった1人で職務に当たらせる。 
ところが県庁からやってきた何も事情を知らない局長が、何も知ろうとしないまま「おみおくり係」廃止を決めてしまう。

 

最後の「おみおくり」を果たすべく、自宅アパートの向かいの団地で起こった孤独死の案件調査を始める。
孤独死という最期を迎えた蕪木という男の生きていた痕跡を辿るうちに、牧本は今まで抱いたことのなかった感覚を覚える。
蕪木の生き方に感銘を受け、一人娘の塔子と話しやり取りをするうちに、自分の行く末のために準備した墓地をまるっと彼女に渡すことを決めてしまうのである。

 

なかなかできることではない。
「そうしたい」と思うほど蕪木の生き方に揺さぶられたのだろう。
ただ、そこまで調べ、思いを全て尽くした牧本はあっという間に「クライマックス」を迎えてしまう。
最後の仕事をやり途げようとする矢先のことだった。
この仕事を終えた後の牧本の行く末を映画を見ながら案じていたが、こうなってしまうとは。泣いてしまった。

 

彼の人生に新たな回転が生まれそうだったのに。
これが泣かずにおられるか!

 

 

ここまで入れこんでしまうのは、牧本の特性のことが影響をしている。
しかし、それ以上に牧本がやっていた「故人の生きた痕跡を辿る」という作業を私自身も必要に迫られてやったことがあったからだ。父方・母方の家系図を作成する為である。

大まかな家系図を作ろうにも、古い戸籍を調べるだけでは足りなかった。
仕事の休みの片手間でしか情報収集に当たることが出来ず、親族内でも高齢化の進む片田舎では存命者が少なく、大いに難渋した。その上、あらぬ誤解を招いてしまい、暴言電話が掛かることもしばしばだった。
それでも、祖先で親族に当たる人が「その土地でどのような生き方をしたのか」を調べて回った。
私は調べるにつけ、そうして亡き親族に思いを馳せながら、母と共に尋ねて回ったことを思い出した。

 


 牧本は、向かいの団地に住んでいた赤の他人を調べていくうちに、きっと他人とは思えないような親近感を覚えていったのだろう。
一見不偶だと捉えられそうな牧本の「クライマックス」だが、淡々とかつ真摯に職務に当たってきた彼の生き様を讃え、労うかのようなラストは、やっぱり泣けてしまう。

孤独死をを孤独死して捉えず、「一人の人間」ととして尊厳を持って当たってきた牧本の人柄はちょっと困った人であっても、心優しき「一人の人間」であった。

 

 


それを受けて、私は「牧本のように」「かつて亡き親族の調査をした時と同じように」、今の自分で向き合うことができるだろうか、考える。
そして、いつか来る父母の死に、はたまた自分の死に向き合うことができるのだろうか、考える。

 

 

答えはすぐには出ないけれど。

 

 

点数のつけられない日々〜しゃり

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急激な気温変化に振り回され、果ては自身の体調に振り回された今日この頃。
先日、後回しにしていた衣替えをようやく終えた。

 

私が住む所はまだ日中は半そでに羽織りで凌げるが、さすがに朝晩は冷え込むので、ホットフラッシュでどうにかちょろまかすことも、いよいよどうにもならなさそうな雰囲気になってきた。入れ替えは良く晴れた日に行った。

 

衣替えといっても、服装へのこだわりは「無地」であること以外皆無に等しいので、言う程の量にはならない。とはいえ、それでも面倒な作業だ。

 

とかく私は、服の物持ちについては良すぎるくらい良くて、未だに20年近く前に購入した服を持っていたりする。
アラフィフになったのだから、もういい加減若い時に着ていた服は「小銭」に変えていかねばなと思う。いつか着れるかもと思って大切にしていたが、年齢と体重には逆らえない。

「小銭」にも変えられないような部屋着にしていたシャツはざくざく切る。ウエスとして拭き取り掃除等に活用するつもりだ。
ただこちらも「20年選手」はザラで、下手すると「30年選手」もいたりする。

 

物持ちが良すぎて自分でもびっくりするが、最後の最後までキッチリ使い切って本当にお役ごめんといったところだろうか。くたびれた布地は拭き取り作業には最適なのだ。

そうやって何やかや仕分けて、ざくざく切った。
切る作業は緩衝材のプチプチを潰すがごとく、ストレス解消にもなっているので、嫌いではない。

 

そうやって衣替えと「捨離」の支度だけが整ったというだけの秋の一コマ。