ぎっくり腰÷(リハビリ筋トレ+「運動」)=余力ナシ

しばらく書けずにいたブログ。

全ては「n回目のぎっくり腰」で身動きがまともにとれなかったため。

で、ようやく動けるようになった!
……かと思えば、筋トレ込みのリハビリの日々。

 

40歳以降の筋力・体力低下が著しいことを自覚して、実は半年前から週1で公共のトレーニング室に通っている。
しかし、自転車こぎとクロストレーナー中心のトレーニングでは気安めでしかなかったのかもしれない。


リハビリに通う度、自分の「身のだらしなさ」を徹底的に突きつけられる。
「いよいよ日常生活の中に『運動』を取り入れるようにしなければならない」ということがはっきりくっきり。そうしたこともあり、重たい身体を引きずり出さざるを得なくなった。

 

週1の筋トレジムは、一旦週2のリハビリに置き換わり、ほぼ毎日30分程度のウォーキング。荒天時はやらないが、余力があれば1時間。念入りに行うストレッチは適宜。運動後と寝る前は必須。

 

本当に身体作りをしなければ、ブログすら書けなくなる。
そう思い知ったので、「運動」をやりはじめたものの、ブログの下書きのための走り書きすらする余力がない位になってしまっている。

 

何かをやりはじめて、自分の中にうまく習慣として定着してゆけば、走り書きの余力もできるだろうが、今はその余力を絞りだす「余力」すら残っていない。
絞りだす余力があるなら、日常生活をまわす方に向ける必要がある。よってこのありさまである。

 

クセ強めの両親の血を引き継ぎ、彼らほどではないものの、その素養を組み込んでしまっている私の宿命みたいなものかもしれない。それ以上に、そもそもの体質が器用じゃないから仕方ないところがある。

 

 

とりあえず、今は身体作りに全振りするしかないのは確かなのだ。

ラクに書けるかわからないが、「私が」ラクに書ける方法

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先日、はてなブックマーク経由でこういう記事を見つけた。

www.yururimaaruku.com

記事で取りあげられている本は、特にブロガー界隈でとても良く知られた名著と名高い。

私も辺境ブロガーの一人として、文章術の本や記事はそれなりに読んできた。
しかし、この本は読んでみたいと思いつつ、まだ読めず・買えずにいる1冊である。
ただ、こちらの記事を読む限り「何気に似通っているようなことをやっているかも」と思い、妙に変な自信を得たところだ。

そう思えるのはこの記事を読み、実際この記事を元に継続しているからである。

media.lifull.com

昨年、はてなブックマークで見かけた記事だった。

「まず、とにかくバーッっと書いてみる」

確かにそうかもしれない。
この記事の中で言及されているように、私自身が「人に読まれること」に囚われ過ぎていてまともに書けないことの方がはるかに多かったのだ。(特にブログ立ち上げ当初は収益化を意識していたので尚更である。)


そんな中でこの記事を読み、「直接PCに向かうよりも思いの丈を著しやすいかもしれない」と思い立つ。
敢えてノート等は準備せず、処分しきれていなかったカレンダーの裏につらつら書き始めた。
すると、思った通り。手書きで文章を書いているとウソのように文章が捗るのである。

 

滞りがちだったブログの更新が、月2,3本は確実にできるようになった。
ネットに上げる記事は一応選抜しているので、実際はその倍とはいかなくても1.5倍くらいは書いている。
その位、割と数を書けるようになったという実感がある。

 

手書きの何がよいかというのは、やはり始めからキチンと書かなくていいこと。
後からPC(スマホ)上で修正・肉付けしていけばよいからだ。
それ以上によいのは「文章に気持ちを乗せやすい」ということだ。只々ペンの走るままに著しているのだから、当然である。
PC(スマホ)にデータとして移すと、一読者として客観的に眺められるので修正加筆もやりやすい。
「なんでこんな単純なことで…?」と思うが、意外とそうしたものである。

 

手書きで著すのはよいが、問題は裏紙に書いた「手書き文字の取り込み」である。
始めのうちは、ご丁寧にワープロ検定さながらの手入力をしていた。時代は21世紀を超え令和である。時代錯誤も甚だしい。
そんな20世紀に取り残されたかのような私の様子を見かねた旦那さんが、「今は文字認識のいいアプリが色々出てるから、そういうの使った方がよくない?」と提案して貰い、半信半疑で使うようになった。

多少のエラーはあるものの、ほぼ誤差なく認識してくれる。只々極楽。手入力とは何だったのか。技術の発展、そしてAIの普及とは素晴らしい。
バカでかいスキャナーで認識していた○年前とは大違い。しかもアプリは無料。手書き派には願ったり叶ったりだ。(あとは自分の字を走り書きではなく、丁寧に書けばより読み込み精度はさらに上がり楽ができるだろう。)


イマイチ書いて楽しくないし、書けないと思っている方がいるとしたら、だまされたと思って「手書き」を試してみてほしい。文字認識アプリがいろいろ出ているので、自分の合うものを探してみたらよいと思う。

因みに私が使っている文字認識アプリはこちら。

撮るだけ文字認識

撮るだけ文字認識

  • Takashi Tomoto
  • 仕事効率化
  • 無料

apps.apple.com

play.google.com


データとして取り込んだ文章は、おなじみ「Evernote」を使っている。

 

「人のため、世のため」に発信しようと思うと気負ってしまうと、なかなか書けないものである。前述通り、収益化のための記事を書こうとしていた私もそうだった。
このあらゆる「ため」は後からついてくるものであって、その前に、「文章を自分が書きたいと思えること」「文章を書くこと自体が楽しいと思えること」が大前提ではないかと思っている。

 

以上が「私がラクに書ける」と思う方法である。
まあ、紹介してみたものの、実にありきたりで全く変わり映えしない。ベタ過ぎるくらいベタである。
少しでも期待してくださった方には本当に申し訳ない。ごめんなさい。

 

ただ、どの文章術の本にも書かれていることは、結局は「とにかく書く」ということ。これに尽きるのだ。
迷ってる方、悩んでいる方。とりあえず深いことは考えず、チラシの裏でもいいので、まず書いてみることを全力でお勧めする。

 

「気持ちの乗った文章」は、必ず誰かの元に届くはずだから。

 


因みにキャッチアップ画像は、この記事の手描き文章を使っている。余りにも走り書きが過ぎるのでモザイク処理をせざるを得ない……。

【若干ネタバレ】映画「アイ・アムまきもと」で死ぬこと、生きることを考える

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自分が死んだ後のことを考えて生きる。できそうでできないことだ。

しかし牧本は、市役所の「おみおくり係」で多くの孤独死の現場に立ち合い、弔い、その亡骸を預り、最後の最後まで死者に寄り添う。
自分が死んだ時のことを考え、自身の墓地の準備すらきっちり行っているという、そんな男が主人公の映画だ。

 

その「おみおくり係」の職務内容は、ふわっとした係名からは、到底想像できない。
惨憺たる孤独死の現場を淡々と調査し、背景を探ること。そして必要な情報と遺品をかき集め、自分なりに整理すること。それが牧本の主な仕事である。

本来なら、調査が済んだ遺骨は速やかに納骨堂に収める事ととされているが、牧本はそうしない。
自費で葬儀を手配し、きっちり弔う。挙句、遺骨引き取りを遺族に断られても、引き取ってもらえるかもしれない「いつか」を目一杯遺骨と共に待つ。そういうことが平気できるし、むしろ待つものだと思っている。

それが「牧本」という男である。

 

特に映画内で言及されない。しかし誰がどう見ても、彼の特性は明らかにASDだとわかるだろう。
勤務先ではその特性を把握した上で、牧本に「おみおくり係」という仕事を与え、たった1人で職務に当たらせる。 
ところが県庁からやってきた何も事情を知らない局長が、何も知ろうとしないまま「おみおくり係」廃止を決めてしまう。

 

最後の「おみおくり」を果たすべく、自宅アパートの向かいの団地で起こった孤独死の案件調査を始める。
孤独死という最期を迎えた蕪木という男の生きていた痕跡を辿るうちに、牧本は今まで抱いたことのなかった感覚を覚える。
蕪木の生き方に感銘を受け、一人娘の塔子と話しやり取りをするうちに、自分の行く末のために準備した墓地をまるっと彼女に渡すことを決めてしまうのである。

 

なかなかできることではない。
「そうしたい」と思うほど蕪木の生き方に揺さぶられたのだろう。
ただ、そこまで調べ、思いを全て尽くした牧本はあっという間に「クライマックス」を迎えてしまう。
最後の仕事をやり途げようとする矢先のことだった。
この仕事を終えた後の牧本の行く末を映画を見ながら案じていたが、こうなってしまうとは。泣いてしまった。

 

彼の人生に新たな回転が生まれそうだったのに。
これが泣かずにおられるか!

 

 

ここまで入れこんでしまうのは、牧本の特性のことが影響をしている。
しかし、それ以上に牧本がやっていた「故人の生きた痕跡を辿る」という作業を私自身も必要に迫られてやったことがあったからだ。父方・母方の家系図を作成する為である。

大まかな家系図を作ろうにも、古い戸籍を調べるだけでは足りなかった。
仕事の休みの片手間でしか情報収集に当たることが出来ず、親族内でも高齢化の進む片田舎では存命者が少なく、大いに難渋した。その上、あらぬ誤解を招いてしまい、暴言電話が掛かることもしばしばだった。
それでも、祖先で親族に当たる人が「その土地でどのような生き方をしたのか」を調べて回った。
私は調べるにつけ、そうして亡き親族に思いを馳せながら、母と共に尋ねて回ったことを思い出した。

 


 牧本は、向かいの団地に住んでいた赤の他人を調べていくうちに、きっと他人とは思えないような親近感を覚えていったのだろう。
一見不偶だと捉えられそうな牧本の「クライマックス」だが、淡々とかつ真摯に職務に当たってきた彼の生き様を讃え、労うかのようなラストは、やっぱり泣けてしまう。

孤独死をを孤独死して捉えず、「一人の人間」ととして尊厳を持って当たってきた牧本の人柄はちょっと困った人であっても、心優しき「一人の人間」であった。

 

 


それを受けて、私は「牧本のように」「かつて亡き親族の調査をした時と同じように」、今の自分で向き合うことができるだろうか、考える。
そして、いつか来る父母の死に、はたまた自分の死に向き合うことができるのだろうか、考える。

 

 

答えはすぐには出ないけれど。

 

 

点数のつけられない日々〜しゃり

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急激な気温変化に振り回され、果ては自身の体調に振り回された今日この頃。
先日、後回しにしていた衣替えをようやく終えた。

 

私が住む所はまだ日中は半そでに羽織りで凌げるが、さすがに朝晩は冷え込むので、ホットフラッシュでどうにかちょろまかすことも、いよいよどうにもならなさそうな雰囲気になってきた。入れ替えは良く晴れた日に行った。

 

衣替えといっても、服装へのこだわりは「無地」であること以外皆無に等しいので、言う程の量にはならない。とはいえ、それでも面倒な作業だ。

 

とかく私は、服の物持ちについては良すぎるくらい良くて、未だに20年近く前に購入した服を持っていたりする。
アラフィフになったのだから、もういい加減若い時に着ていた服は「小銭」に変えていかねばなと思う。いつか着れるかもと思って大切にしていたが、年齢と体重には逆らえない。

「小銭」にも変えられないような部屋着にしていたシャツはざくざく切る。ウエスとして拭き取り掃除等に活用するつもりだ。
ただこちらも「20年選手」はザラで、下手すると「30年選手」もいたりする。

 

物持ちが良すぎて自分でもびっくりするが、最後の最後までキッチリ使い切って本当にお役ごめんといったところだろうか。くたびれた布地は拭き取り作業には最適なのだ。

そうやって何やかや仕分けて、ざくざく切った。
切る作業は緩衝材のプチプチを潰すがごとく、ストレス解消にもなっているので、嫌いではない。

 

そうやって衣替えと「捨離」の支度だけが整ったというだけの秋の一コマ。

 

 

【若干ネタバレ】並行世界と死と幸福と。~映画「君を愛したひとりの僕へ」「僕が愛したすべての君へ」感想

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【注・追記】映画を見た順番が間違っていましたので修正しました。「君を愛したひとりの僕へ」→「僕が愛したすべての君へ」の順が正しいです。

 

「人に寄り添う」ということはどういうことなのか。

 

生きること死ぬことは表裏一体であり、生きていれば必ずいつかは訪れることである。避けようにも避けることはできない。
それが例え並行世界であっても、それはどうしても変えることのできない普遍性を感じる。
避けることのできない「犠牲ある現実」を、並行世界を持ってしても「何らかの形で誰かが犠牲になる世の中」で見出せる幸福とは何なのだろう。

 

映画を見終えて、最初に感じたことである。

 

 

この2本の映画は「見る順番で印象が変わる」という触れ込みである。はてさて、そんなことがあるんかいなと半信半疑で見に行った。

そして2本とも観てみて、とにかくお伝えなければならないことは、「この映画は2本観ないと完結することはできない」ということである。

 

ちなみに私 は赤の「君を愛したひとりの僕へ」→青の「僕が愛したすべての君へ」の順で見た。
べた過ぎるハッピーエンドが苦手である私だが、この順番で見ても甘くなり過ぎなかった点は良かったと思う。確かに逆の順で観たとしたら印象は大きく変わるであろう。
(どちらから見ても最後の落とし所が不幸になるわけではないので安心にほしい。)

 

ただ並行世界を表現するための「虚質科学」のうんちくは、虚構の学問とはいえ物語を難解にしてしまっていると感じた。
解説文なり説明表記が欲しい所であったが、主軸は「学問」の話ではなく、主人公「(それぞれの)暦」の物語であるから、そこまで深堀りする必要はないのかもしれない。
原作未読だが、読んでおけば少しは違うのだろうか。

 

よって赤の「君愛」を見終えた感想は、どうも「雰囲気だけの悲恋の話」という印象しか残らず、消化不良な感じだった。
後日、改めて青の「僕愛」を見ると、「君愛」の伏線が「僕愛」で全て回収される。
満足度が高く、冒頭の通り深く考えたくなるような、そんな物語であった。

 

両方の作品を見て、一連の物語の一番のキーパーソンになるのは「瀧川和音」であることは間違いないと思う。
(並行世界を行き来するので正確ではないかもしれないが)この物語で最後まで生き残ることができているのが和音である。
栞と直接接点があるわけでなく、暦から聞き及ぶ話で彼女のことを把握し、暦の研究に、生き様に全てを捧げ、最後まで寄り添い遂げる芯の強さに心打たれずにいられなかった。

 

 

私は和音のように最後まできちんと旦那さんに寄り添えることができるだろうか。

そんなことを考えた。

点数のつけられない日々~ねるだいじ。

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この数週間、季節の変わり目と更年期の「さわり」が出始め、どうしようもなく、文字を書く気になれなかった。

その前が調子がよく、シルバーウィークを含めた2週連続の連休で知らず知らずのうちに精力的に動いてしまったこと。そして、これまで以上に旦那さんと向き合った結果がこのありさまである。

 

夜更けまで旦那さんと向き合って話し、どんなに眠くて寝たとしても必ず深夜と明け方に目覚めてしまう。
昼寝を軽くしたとしても追いつかず、日常生活以上の何かをすることまで頭が回らなくなってしまったのだ。(日常生活だってちゃんと回せていたかどうかホントのところよくわからない)

 

元々PMSが酷く、3年前から漢方に通じた医師のいる内科にかかっている。
お陰様でPMSは改善されたのだが、急に引き起こった現在の状態に今の処方では対応できないのだろう。

直近の診察の際、「とにかく夜中・明け方に目が覚めること」「異常に暑く感じること」を伝えると、更年期簡易チェックを受けることとなり、処方漢方が変わった。更年期の入り口で今のうちから対策をすべきとのことだった。

 

今のところ、少しだけほてりはマシになったものの、深夜早朝覚醒は変わらない。
で、とにかく早く寝ることを心がけた。

私の疲弊ぶりを見て、旦那さんは連日の夜更かしに付き合わせていたことに申し訳なさそうだった。(絶対的に必要な議論だったので、やむを得ないのだが。)

 

とりあえず、この1週間23時までに床に就くことを心がけたら、早めに目が覚めても苦にならなくなった。旦那さん曰く、顔色も良いという。

 

確かに日中の疲弊はかなり減った。後回しにしていた家事にも取り掛かることができたし、手つかずだった衣替えも終えることができたし、何より夕飯の小鉢のおかずを一品増やす気にもなったのだ。

小鉢に関しては、自身の体調改善のための作り置きできるものではあるが、そこまで気力が戻ってきたことに自分でもちょっと驚いている。
寝る時間の確保は「生きるための全活動の基礎」なのだと思った。

 

これから本格的に寒くなってくる。今後、現在自身の身体に起こっている「熱さ」や「中途覚醒」がどう変化するのかは到底分からない。
それでも、「最低限のできること」で上手く自身をやりくりしていかなくてはいけないのだ。

 

そうやって、これまでとは違う秋の深まりを感じているのであった。

点数のつけられない日々〜ひとおおい

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この3連休は珍しく出ずっぱりであった。

 

初日こそ、地元で「映画をはしご」程度だったが、2日目・3日目は少し遠出をした。
本来ならば宿泊を要する「とある予定」でだったが、先方の都合により「とある予定」をキャンセルされてしまったのである。

 

先方の都合にどうこう言うつもりは毛頭ない。
宿泊もキャンセルしようと思えばできないことはなかった。
しかし「折角の宿泊予約をキャンセルするのも勿体ないね」という話になり、「じゃあこの際だから行ってみたいところがある」という旦那さんのリクエストに応えて出かけることにしたのだ。

 

 

「どこに行ったか」という具体的な行先は、敢えてぼかす。
旦那さんのリクエストは各所から評判高い「温泉施設」であった。
私もそれとなく聞いたことのあるくらいの有名所である。とにかくお風呂とサウナがいいらしい。
「とある予定」は「温泉施設で癒される」ことに置き換わった。

 


その「温泉施設」には初めて出向くので、ある程度前情報は入れておいた。
私たち夫婦はそれなりに各所温泉施設には行っている方だと思うので、前情報を入れておけば問題はないだろうと考えていたのである。
しかし前情報では拾えない、生の情報が現地には転がっていたのだ。

 

 

そう、それは「人混み」である。

 

 

期待値高く出向いた温泉施設は全国的に評価が高く、お昼過ぎに辿り着いたにも拘らず、駐車場はほぼ満車。他県ナンバーだらけの中で、何とか私たちの車も停めることができた。
駐車場がこんな感じなので、当然ながら脱衣所も浴場も休憩所も併設の食堂もどこもかしこも人・人・人・人・人……。

多いだろうとは予想はしていたが、ここまでとは考えも及ばなかった。
寿司桶にびっちり詰まっているオードブル寿司さながらなのである。

まあ、前の3連休は猛烈台風のせいで何もかもが足止めを食らった人が多いだろうから、この機会を逃すまい!と考えてしまうことは必然である。


温泉自体は悪くなく、普段入ることはほぼない水風呂で心地よくさっぱりするということもできたので、満足度が低いわけではない。
ただ人が多すぎたのだ。

 

私の気質上、初めて行く場所はどんなところでも状況的にどうしてもストレス値が上がってしまう。いつもならストレス値が上がるだけでどうにかなるのだが、今回は「あの」人の多さにとどめを刺された感じだった。

私たち夫婦もその一端を担ってしまっているので、大きな声で言える筋合いは到底ない。
しかし……ただ、もう少し、ゆっくりしたかったというのが本当のところ。
一瞬空いたタイミングを逃さず、食堂で夕飯を頂いて、逃げるように施設を後にするしかなかった。

 

一番行きたがった旦那さんですら人の多さに流石にうんざりしたようで、「今度来る機会がありそうなときは絶対平日にしよう」と誓いを新たにしたようだ。

そんな連休2日目でも、連休3日目の帰り道で訪れた神社で心洗われ、美味しい蕎麦にありつけることができたのは救いだった。(やっぱり人は多く、そば店にも並ぶことにはなったが。)

 

只々人の多さを久しぶりに感じ、アグレッシブに動いた日々だった。

ただ、その反動は著しく、数日たった今でも疲弊があからさまになる感じになってしまった私自身がやっぱり一番残念なのである。

 

私のような気質は旅が負担になることが多く、今回も旦那さんにも随分配慮して貰った。にも拘らず、このザマなので毎回申し訳なく思う。

 

……ま、楽しかったことには変わりないことだけは明記しておく。