【若干ネタバレ】映画「アイ・アムまきもと」で死ぬこと、生きることを考える

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自分が死んだ後のことを考えて生きる。できそうでできないことだ。

しかし牧本は、市役所の「おみおくり係」で多くの孤独死の現場に立ち合い、弔い、その亡骸を預り、最後の最後まで死者に寄り添う。
自分が死んだ時のことを考え、自身の墓地の準備すらきっちり行っているという、そんな男が主人公の映画だ。

 

その「おみおくり係」の職務内容は、ふわっとした係名からは、到底想像できない。
惨憺たる孤独死の現場を淡々と調査し、背景を探ること。そして必要な情報と遺品をかき集め、自分なりに整理すること。それが牧本の主な仕事である。

本来なら、調査が済んだ遺骨は速やかに納骨堂に収める事ととされているが、牧本はそうしない。
自費で葬儀を手配し、きっちり弔う。挙句、遺骨引き取りを遺族に断られても、引き取ってもらえるかもしれない「いつか」を目一杯遺骨と共に待つ。そういうことが平気できるし、むしろ待つものだと思っている。

それが「牧本」という男である。

 

特に映画内で言及されない。しかし誰がどう見ても、彼の特性は明らかにASDだとわかるだろう。
勤務先ではその特性を把握した上で、牧本に「おみおくり係」という仕事を与え、たった1人で職務に当たらせる。 
ところが県庁からやってきた何も事情を知らない局長が、何も知ろうとしないまま「おみおくり係」廃止を決めてしまう。

 

最後の「おみおくり」を果たすべく、自宅アパートの向かいの団地で起こった孤独死の案件調査を始める。
孤独死という最期を迎えた蕪木という男の生きていた痕跡を辿るうちに、牧本は今まで抱いたことのなかった感覚を覚える。
蕪木の生き方に感銘を受け、一人娘の塔子と話しやり取りをするうちに、自分の行く末のために準備した墓地をまるっと彼女に渡すことを決めてしまうのである。

 

なかなかできることではない。
「そうしたい」と思うほど蕪木の生き方に揺さぶられたのだろう。
ただ、そこまで調べ、思いを全て尽くした牧本はあっという間に「クライマックス」を迎えてしまう。
最後の仕事をやり途げようとする矢先のことだった。
この仕事を終えた後の牧本の行く末を映画を見ながら案じていたが、こうなってしまうとは。泣いてしまった。

 

彼の人生に新たな回転が生まれそうだったのに。
これが泣かずにおられるか!

 

 

ここまで入れこんでしまうのは、牧本の特性のことが影響をしている。
しかし、それ以上に牧本がやっていた「故人の生きた痕跡を辿る」という作業を私自身も必要に迫られてやったことがあったからだ。父方・母方の家系図を作成する為である。

大まかな家系図を作ろうにも、古い戸籍を調べるだけでは足りなかった。
仕事の休みの片手間でしか情報収集に当たることが出来ず、親族内でも高齢化の進む片田舎では存命者が少なく、大いに難渋した。その上、あらぬ誤解を招いてしまい、暴言電話が掛かることもしばしばだった。
それでも、祖先で親族に当たる人が「その土地でどのような生き方をしたのか」を調べて回った。
私は調べるにつけ、そうして亡き親族に思いを馳せながら、母と共に尋ねて回ったことを思い出した。

 


 牧本は、向かいの団地に住んでいた赤の他人を調べていくうちに、きっと他人とは思えないような親近感を覚えていったのだろう。
一見不偶だと捉えられそうな牧本の「クライマックス」だが、淡々とかつ真摯に職務に当たってきた彼の生き様を讃え、労うかのようなラストは、やっぱり泣けてしまう。

孤独死をを孤独死して捉えず、「一人の人間」ととして尊厳を持って当たってきた牧本の人柄はちょっと困った人であっても、心優しき「一人の人間」であった。

 

 


それを受けて、私は「牧本のように」「かつて亡き親族の調査をした時と同じように」、今の自分で向き合うことができるだろうか、考える。
そして、いつか来る父母の死に、はたまた自分の死に向き合うことができるのだろうか、考える。

 

 

答えはすぐには出ないけれど。