【ネタバレあり】映画「こちらあみ子」を見て思うこと(前編)

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先日観た、この映画の感想を端的に述べるなら、「何とも言えない気持ちになる」。
これに尽きる。

 

映画予告やプロモーションでは、純粋な子供の気持ちを余すところなく表現したものだという明るい印象があった。
確かにそれに間違いはないのだが、良くも悪くも「全てにおいて居た堪れない」という感想にしかならなかった。

 

あみ子は「知的障害を伴わない発達障害」であるのだろうなということは、特に言及はないものの冒頭のうちから見て取れる。
周りの人々があみ子と過ごす時間が長くなればなる程、周りがどんどん歪んでゆく。
「歪んでゆく」というより「歪みをを埋め合わすことが難しくなる」という方が正しいかもしれない。

 

それが決定的になってしまったのは、自宅庭の「墓札」だった。
あみ子にとっては「最大にして最高の弔い方法」だったはずだが、飼っていたペットの死と下の弟(妹)の死を「庭で同列」にしてしまうのは、人間の道理として「違う」ことなのだ。
あみ子にはそのことが理解できないし、周りもそれを教え悟そうとしない。教えても、彼女に届かないと感じているからなのだろうか。そうなると、家族と共に寄り添うことなど困難になる。

 

兄は分かりやすくグレて家を出てしまうし、継母は「墓札」の一件で完全に病んでしまい、父親は最終的に自分の母親(おばあちゃん)にあみ子を託し、自分だけ元の家に戻ってしまう。
あみ子の心の拠り所であった「のり君」との関係も、その後完全に崩れてしまった。

 

おばあちゃんの家に預けられたあみ子は、今後この社会で生きていけるのかどうか、いささか心配になる。
それは「誰もあみ子に社会性を教えようとしない」から。おばあちゃんにどれほどのことができるだろう。
ずっとおばあちゃんと暮らすわけにはいかないし、いずれは生きにくかろうと社会と関わりを持たなければならなくなる。そうした時にあみ子はどうなってしまうのだろう。

 

そんな感じで「何とも言えない」気持ちになってしまうのである。

 

劇中、唯一寄り添おうとした「坊主頭のクラスメイト」がいたことは救いであった。
映画終盤にあみ子が「気持ち悪いんじゃろう」「教えてほしい」と彼に問いかけるシーンがある。
その問いに彼は「あるけど、オレだけのヒミツ」と言って去ってしまう。
これは彼なりの優しさなのだろうということは理解できる。
しかし、彼はあみ子に「本当のこと」を伝えた方がよかったのではないかと思えて仕方がないのである。

 

彼女が「社会性」を身につける、最後のチャンスじゃなかったのか。

 

そう思ってしまうと、「何とも言えない」気持ちになってしまう。

 

 

監督はあみ子を演じる大沢一菜さんに「芝居をしないように」と伝え、特定のイメージを寄せないように撮影したのだという*1

そのことによって劇中のあみ子の存在が際立っている。「救いはあみ子自身の中にある」ということを描きたかったのかなとも思わなくもない。*2

ただ、あみ子ほどではないものの、「そういう感じの人」と暮らしてきた経験がある身からすれば、どうしても「無責任ではないのか」と少々憤りすら感じるところもある。

 

 

彼女は彼女の人生で、私が感知するところでもない。
ましてや「とあるフィクション」で「その映像作品」でしかない。
それなのに「あみ子」は、まざまざと自分の生き様を見せつけ、観客に「わたし」を訴え迫ってくる。
これが作品としての素晴らしさなのだろう。

 

 

ただ、それでも「何とも言えない」気持ちになってしまうのだ。

 

どうしてもこの気持ちの落としどころをつけずにいられなくなり、原作を手に取ることにした。

 

 

【後編に続く】