「娘」だったはずの「母親」は「娘」だった頃を忘れるものなのか

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私にはわからない。もう「母親」になることはないから。

 

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西原理恵子氏とその娘氏が話題だ。(娘氏は「彼女の娘」とされるのは嫌うかもしれないが、この記事の表現便宜上、「娘氏」とさせていただくことを了承願いたい。)


娘氏による心情を吐露したブログが引き金になっており、既に一番該当するであろう記事は一旦ブログ上から姿を消した。

反響が反響を呼び、SNSのトレンドに沈んでは浮上し、また沈んで……ということをここ数日で繰り返している。

 

盛んなトレンドに乗るのは恐ろしさを感じつつも、私の中でどうしても避けては通れない感じがした。私も毒親・毒家族育ちだからだ。よってこの気持ちをどうにか言語化できればと思い、綴っている。

 

 

私は西原作品が好きで、若い頃はよく読んでいた。
古の雑誌「uno!」に何故かハマってしまい読んでいた頃、やたら目についていた記事があった。それが「鳥頭紀行」であり、「彼女」のことを知るきっかけとなった。

程なくして、図書館に足繁く通う日々の中でたまたま書架にあった本を借りる。群ようこ氏との対談本、赤い表紙が忘れられない「鳥頭対談」である。

この対談本、全編において様々なことをテーマで(良いように言えば)ざっくばらんに語り合う内容となっているのだが、最初のテーマが「実母」なのだ。お互いの実母について、友人同士の愚痴感覚でこき下ろすざっくばらんに語り合う内容なのである。当時まだ年端も行かない若造の私にとって、「度肝を抜かれる」という言葉では不足するかのような衝撃を覚えたものだ。

それまで「親に感謝して当然」とされてきた中で育った。親に対する気持ちにモヤ付いていたある日、親戚が配っていた某宗教系雑誌の「開けた未来を送るため」寄せられた人生相談の記事にも似たような感じで書かれていた。

そうした風土や内容に随分辟易していたものだった。当時の気分的には、これまでの色々を思い出し、とてもそんな気持ちになれなかったのである。そんなモヤ付いた心的状況の中、この本を読んでしまったのだ。「自分の中の違和感が間違いではなかったのか!」と至極、至極安心したことを今でも鮮明に思い起こさずにいられない程である。
私にとってのいわゆる「心的親殺し」は、この本きっかけであるといっても過言ではないだろう。(エキ●イト携帯ホームページを始めたのも、これきっかけのところが大きい。)

 

それ以後、職場の同僚から「ぼくんち」を貸してもらい読み、「上京ものがたり」「女の子ものがたり」購入し、大いに涙を流したものである。

辺境田舎出身による悲しさや(そこまで酷くはないものの近しいような)取り巻く底辺ぶりに共感しか覚えなかったのだ。
しかし、それ以降「彼女」の新しい作品に触れることはなくなっていた。


毎日かあさん」も作品の存在こそ知ってはいたが読んだことはなかったし、本を手に取ることもなかった。なぜか。

そして、なぜか読み返したくなり、トレンドに上る数日前に私は図書館で「鳥頭対談」を借りて、借りたままになっていた。
そんな中で起こった今回の娘氏によるブログ記事。……何かの虫の知らせというのだろうか。

 

好きだった作品を作り出していた「彼女」は、娘氏にとっては毒でしかなかったことがショックであった。が、きっとそういう風にしかできなかったのだろうと思えてしまったのだ。

気性荒めの辺境田舎の漁村で、手荒に育てられ、必死に生き延びてきた「彼女」にとってはそれが当たり前だったのだろう。(得てして(かつての)地方漁村は手荒な言葉ですら「冗談」として片づけてしまう悪しき風習みたいなものは存在すると思っている。そして、私にも身に覚えがある。)
「毒の中で育つと自身も毒を持つ親になる」ということは、児童虐待・AC(アダルトチルドレン)界隈でよく言われる事だ。
そこから「『彼女』もそうなってしまうのではないか」という、過去作品の読後感に残る私の中の妙な予感は間違ってなかったのだと思う。恐らく、ある日を境にパタッと作品を追わなくなった理由の一つになりうるかもしれない。

 

「彼女」は自分そっくりな娘氏に「彼女」自身を重ねすぎてしまったのではないだろうか。そして暴言を放ちつつ、すべきことはきちんとやってしまう裏腹さは、毒親なら十分ありうるのではなかろうか。(私の母親もそういう所があったのだ……)

 

しかし、娘氏のブログ記事を読む限り、何をどう言おうとも「彼女」は娘氏にとって足枷でしかなかったのだろうと思う。(田舎特有の手荒な冗談だとしても。暴言は冗談と済まされない。)
娘氏だって、本当ならこんなことを思いたくもないだろうし、書きたくもなかったのではないだろうか。兄と同じように対等に愛される実感が欲しかったのではないだろうか。(これは邪推かもしれないし、踏み込み過ぎた感情かもしれないが。)

 

ただ、「彼女」はずっとやらかしてしまっていたのだ。「一番最初にお披露目する作品」から16年も。


16年の最後とされる作品である本を当然ながら私は読めていない。読む気になれなかったというのが本当のところだ。
以前NHKの番組として、「彼女」の女子大での講演の模様が放送されていたのを見たことがある。「ああ、私の好きだった作品の頃の『彼女』ではなくなったな」と感じてしまったのだ。
多分、この感情が私の中の妙な予感の全てを表すと思う。

そして「娘氏のブログ記事」は「彼女」に対するこれまでの反歌的なものにあたると感じた。最初にまいた種は巡り廻るのだと思わずにいられない。

 

 

辺境田舎(漁村)の実体をそれとなく知る私は、この件の「彼女」のやり口を理解できないわけではない。勿論肯定するつもりはさらさらないが。ただ、「彼女」はそのノリで娘氏にぶつかっていってはダメだった。娘氏は血を分けても「彼女自身」ではないのだから。


彼女の作品が好きであっても、病める娘氏の気持ちは痛いほど共感するし、全振りで娘氏の肩を持ちたい。

 

いつまでもいつまでも、親との間のことは残る。薄れていっても消えることはない。

これは、私が結婚しているにも拘らず「人の親」になることなく、未だに「娘」の立場でいるからかもしれない。
ただ、「母親」になることで、あんなにしんどい思いをした「娘」だった頃の気持ちを忘れてしまうくらいなら、私は「娘」のままでいいと思ってしまう。

たとえ甘っちょろいと思われても。

 

 

 

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私にはわからなくていい。忘れてしまった「母親」になるくらいなら。

 

 


そして、今必死でもがく娘氏を、心の底から応援したい。

 

 

 

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