【ネタバレあり】映画「さがす」で自分自身を問う

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第一声の感想としては、「構成がすごい」。
劇場の予告編は、「ほぼ全て前半に起こったことでまとめられていたのがすごい」。
そして、その前半を、後半でもって「犯人」と「お父ちゃん」の視点で「きっちり伏線の回収をキメてくるところもすごい」。

 

「すごいすごい」ばかり言っているが、ただそれ以上に、エグい。
殺しのシーンも登場人物の気持ちの錯綜具合もやたら生々しい。
「殺しのシーン」その点で映画の評価が下げられそうな位「生エグい」。

 


良いも悪いも、愛も悪も、ほんの僅かな希望もコテンパンにどん底へ叩きつけ踏み潰される。
そんな色んな感情が行ったり来たりで、とにかく気持ちが多忙になる映画だ。

 


何が正しいのか、「当事者」が何を望むのか、「当事者」にしか真に望む気持ちなどわからないのだろう。
とにかく出てくる人物の状況に思い巡らさずにはいられない。

 

以下、あらすじ起こしによるネタバレあり。

続く感想も若干のネタバレを含みます。ご注意下さい。

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映画の舞台は大阪・西成。

 

娘の元からフッと消えた「お父ちゃん」は、実は連続殺人犯に加担していた立場。
生きる全てが卓球を嗜む妻の存在。そんな妻が難病「ALS」の当事者となってしまう。
妻を深く愛し、生活の全てだったお父ちゃんは現実を目の当たりにしつつも根気よく介護を続けていた。
しかしある日、妻のネット上のつぶやきを見てしまう。
リハビリをしても日に日に弱っていく自分に価値を見出せず、生きる希望を失っていく様が生々しく綴られていたのである。
実際お父ちゃんが留守の間に自殺未遂を起こしてしまい、その現場を見てしまったお父ちゃんも苦悩する。

 

妻の医療費が嵩むせいか生活も困窮を極め、地域の炊き出しにお世話になる日が増える。そんな時に炊き出し先に来ていた犯人に出会う。既に東京で数件殺人を犯しており、瀬戸内の島に逃げ、大阪・西成まで流れてきていた。
不思議と意気投合してしまい、お父ちゃんは犯人に妻を殺めることを依頼してしまう。
2人でつましく経営していた卓球場で、「妻自身の自殺」という体で犯人は妻を手にかける。

 

そこからは堰を切ったように死を望むものを見つけ出し、その幇助をすることで報酬を得るという一連の作業を犯人とお父ちゃんで行うことになる。
お父ちゃんがつぶやきアカウントを複数駆使して、死亡希望者と連絡を取り、実際手をかけるのは犯人という分担制で実行する。
その間、犯人は懸賞金付きの指名手配がかけられてしまう。
そんな時、「確実に300万を出せる」という死亡希望者がいるとのことで、その300万で整形して、国外逃亡してほしいとお父ちゃんは犯人に伝える。
その死亡希望者は過去に犯人による殺人を希望していた女性だった。
共犯であるお父ちゃんは罪を被りたくない一心で犯人の逃亡を幇助する。(自分の卓球場を住処とし、「お父ちゃん本人」になりすましてもいいとすら言ってしまう)

 

そしてお父ちゃんの失踪。
お父ちゃんは死亡希望者を犯人のもとへ連れてくるために、娘に対して失踪という体をとったのだ。


ただ、娘も動かないわけではないことは、前半で描かれた通り。とにかく芯が強い。
後半ではその娘の様子に所々お父ちゃんは遭遇している。娘の目を搔い潜って、殺人を幇助し続けるものの、幇助どころでは済まなくなる。(これがこの映画のエグさでもあり、一番冒頭のシーンの回収にもなっている)

 

その後、お父ちゃんは上手い具合に一旦罪から逃れることはできたものの、再び罪から逃れられなくなる。
全てを知った「芯の強い」娘をもってして。

 

 

 

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以上がネタバレ含むあらすじ起こし。

以下感想もネタバレを若干含みます。ご注意ください。

 

 

 

前半からの伏線の回収と映画全編における落としどころとしては、これが一番よかったのだろうなあと思うし、正直ほっとしたのが本当のところだ。(片山監督による前作「岬の兄妹」は余りに救いようがなかった。ただ、それがその映画の良さでもあると思うが。)
ネットのインタビュー記事で見かけたが、「共同脚本でなかったらもっと難解で残虐なことになっていただろう」というようなことを監督本人が語るほど。

 

「気持ちが多忙になる」とこの記事冒頭で触れたが、感情と共に揺さぶられるのが「倫理感」だ。


基本的に「人はどんな障碍をもってしても寿命を全うできるよう扶助されるべき」だと考える人は多いと思うし、それが真っ当な考えという下で育った人も多いと思う。
私もその一人であり、そのことに関して異論はない。
しかし、この映画を見てしまうと「その考え方が本当にこれが正しいのか」と思わずにいられなくなるほど揺さぶられる。

 

「人は人によって殺められるべきではない」ということは、人として最低限かつ最重要な倫理観である。
しかし、病に伏せた状態で本人の努力をもってしてもどうにもならず、ただ弱り切るのを待ちつつ生きることをその当事者に課す。そうしてしまうのは、果たして正しいことなんだろうか。
「それでも生きて」と願うのは、扶助する立場の人間のエゴではないだろうか。

 

この映画を見て想起されるのは、未だ記憶に新しい「相模原障害者施設殺傷」のような事件だ。この事件の犯人もまた、この映画に出てくる犯人と遠からず近からず、意図としては似たようなことを語っている。
だからと言って、現実の事件もこの映画内の事件も正当化されるべきことでもない。

 

それでもこうした「当事者」のことを思うと心が抉られる。
一体どうしたら弱り切ってしまった「その当事者」に寄り添えることができるのか。
また自分が「その当事者」になってしまった時、どうして欲しいと望むのか。

 

逆に「お父ちゃん」の立場に立った時の自分はどうするのか。
「お父ちゃん」の立場として「当事者」の本当の気持ちを知った時、どうあるべきなのか。こうしたことも考えなくてはいけない。

 


これに関しては簡単に出る答えではないことだけは確かだ。
そして、簡単に出してしまってはいけない答えでもある。

 

ずっと自分の中に抱えていかなければならない問題の一つだと思っている。
「答え」はその時の自分の置かれている立場や心境状況によって変化するものだろう、と漠然と考える。

 

ただ「答え」らしい真っ当な「答え」は、この問題に関しては「あってないようなもの」なのかもしれないと思っている。
多分、両方どちらかの「当事者」にならないとその答えはきっとわからない。

 


その「さがしていた」答えの一つが(決して肯定されるべきものではないと言及しつつ)、ともするとこの映画そのものなのかもしれない。

 

 

追想
「お父ちゃん」と妻のくだりに娘が写真でしか出てこないのは、(演出上やむを得なかったのかもしれないが)それが制作側の「娘に対する優しさ」に見えたのは私だけだろうか。