進学校と進路のありかたを経験則から考える

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先日こんな記事を見た。

 

個人の進路に沿わない進学校 共通テスト受験が前提 生徒「もういいや」|【西日本新聞me】

 

とりあえず進学校に進学し、いざ服飾系へ進路を決めたところ、進学校ゆえに教諭に反対され、志望校に合格できてもぞんざいに扱われる生徒と進学校では就職の斡旋はしてもらうことができなかった。
結局、もういいやと諦めてしまう生徒もいたという。


進学実績を上げたいという学校側の言い分も想像できなくはないが、それをそのまま生徒に投げかけてしまうのはいかがなものだろうか。
もっとも、伝え方によるところが大きく、教師なのにもう少し言葉を選ぶことはできなかったのかなとは思えてならない。

 

この記事の事例では短絡的で粗雑な学校の対応も大概なものだと憤りを覚える。
しかしデジタルネイティブで調べれればある程度の答えが出るようなこの時代を生きてしまっている「生徒たちの大半」は「答えありき」で、何事もできるだけショートカットで物事を済ませようとしているような印象がある。(あくまで個人の見解であることは申し添えておく。)
進路選定においてもそれ故の弊害にも見て取れてしまうのだ。


私自身、小学6年生で「心理学方面を目指す」と決めて10代を過ごした為、決めきれないとする学生の気持ちは分かりかねる部分はある。
しかし、考えてみれば年端のいかない未成年に将来の方向性を確実に決めさせるなんていうのは酷な事だ。

 

それに私が中高生だった20年超前と状況はまるで違う。

探せばある程度の正解は導ける。
その上時間の感覚が短くなり、目まぐるしく状況が変化していく。
ある程度の正解を導き出しても、今ひとつ将来の見通しが立ちづらいことも進路選定に影響しているものだと思う。
そんな世の中で、もがく若者の姿をSNS等で見かけてきた。

 

時間の価値が高まっている世の中ではあるが、それでも私は敢えて遠回りの進路をお勧めしたい。
遠回りでも得るものはあるし、そこから枝分かれして新しい自分の価値を見出すこともできるからだ。


この流れで私自身の話を少しさせてほしい。

私は進学校ではなく、実業系高校の普通クラスで心理系大学を志望したものの、受験に失敗し、やむなくデザイン専門学校へ進学した。その後専門学校卒業から4年後に通信制大学編入し、心理学全般を学んだ。


卒業後は心理学関連で就職したと思われるかもしれないが、それは叶わなかった。
ただ、ボランティアという形で「傾聴技術」と「大学での学び」を活かす場所に参加できたことは願ったり叶ったりだと思っている。
そんな私は非正規就業を渡り歩き、今では若い頃には思いも描くことのなかった専業主婦に収まってしまっている。

それで全く後悔はないと言えば嘘になるかもしれないが、旦那さんの職場に起こるお悩みをしっかり聴くことで、問題突破のヒントを私は知らずして投げているらしい。
こういうところで昔学んだことが生かされているのだから、人生は分からない。

 

何が何でも目指す「それ」になることは、自分自身の首を絞めることにもなり得るし、最短で目指すことも悪いことではないが、遠回りしないと見えない、知りえない事柄も多くある。
それが逆に目指す「それ」に深みを与え、より良い「それ」になれるのではないかと思っている。

ただ、こんなことを書いても、説得力はないだろう。
今はそれはそれで「人生においては及第点」と思っていても、私は10代に思い描いた最高の「それ」に達することはできなかったから。

 

それでもこのことに触れるのは、「遠回りしたとしても見える答えに縛られることなく、とりあえず目の前のことをやってみたらいい」ということだ。


ちなみに、私が在籍していた実業系高校・進路指導部に校区一番の進学校から専門学校の紹介、ひいては就職の紹介の依頼があっているという話を担当教諭から聞かされたことがある。その進学校からは専門学校進学も就職もこれまで出したことがないからだという。

この話は20年超前の話である。
今の進学校にできないことはないはずだ。


この話がどれだけ若い方々に読まれるかなんてことは分からないが、
進学校の先生にはそういう風なスタンスで生徒が決めた進路を頭ごなしに否定したり、ぞんざいに扱うことはやめてほしいと心から願う。

 

進路に悩みぬく生徒の皆さんに幸あれ。