原作は「おばあちゃんの家に預けられたあみ子」の生活描写から始まる。
そこからこれまでのことを回想するという流れになり、映画に描かれた物語へ繋がっていく。
原作と映画は時系列が若干ズレるが、映画自体は原作に忠実に描かれており、あみ子の「これまでの生活」がより具体的で鮮明に語られている。(尚、原作でもあみ子が発達障害である旨の言及はない。)
映画冒頭であみ子がおかあさんに叱られるシーンのセリフに
「インド人のマネももうしないって約束できますか?」
とあるが、この「インド人」は何であるのかということもきちんと回収している。
(給食でカレーが出るとなりふり構わず手で食べてしまうとのことだった。)
原作を読むと、映画が原作を丁寧に踏襲していることが分かる。映像で先に見たせいか、映画の方がマイルドになっているような印象を受ける。
原作の方が、より精細にあみ子の気持ちも、周りがどのように対応していたのかも生々しく描かれている。
原作に対し「一縷の望み」を託した私は、より「何ともいえない」気持ちになってしまった。
ただ、原作冒頭に「映画で描かれた物語のその後どうなったのか」ということが分かるように書かれているのは、ある意味では救いになっているかもしれない。(おばあちゃん以外の人との交流が全くないわけではなかったため。)
ただ、やっぱり実家家族に似た感じの人間がおり、それに苛まされた私にはいいとも悪いとも言えない。
「何とも言えない」
これがこの物語に対する感想の全てだ。
しかし、もう少しお父さんは社会性を教えた方がよかったのではないか。
途中からお母さんになった人だけがどうにかしようとしていたような、お兄さんもまだ小さい頃の内は頑張っていたような、そういう印象は映画を見た時と変わらなかった。
私の子供の頃に比べれば、発達障害に関する世間の理解は確段に進んでいる。
ただ、あみ子の場合はそうした治療めいたことや診断も振り切ってしまうのかもしれない。
そうなると、やっぱり転校前に坊主君と話した時の「あの頃のあの時」が自主的にあみ子が社会性を持てるかもしれない最後のチャンスだったのだとしか思えない。
率直で遠慮もないあみ子を眺め続けることは辛い。
余計なお世話かもしれないが、少なくとも私は彼女がこのままで良いとはとても思えない。
当事者自身も苦しんでいたことを知っているから。
当事者家族であることの大変さを知っているから。
ただ、ここまで気持ちを揺さぶる作品になっているのは、原作・映画どちらともすごいという証明にもなるだろう。(原作が世に出た時、相当な衝撃だったという記事も多くみられる。)
ただただ「何とも言えないもどかしい気持ち」とは裏腹に、今も私の頭の中で時折あみ子が走り回り、そうかと思えばフッと立ち止まり私をジッと見つめている。
頭の中でただジッと見つめるあみ子と同じように、私も見つめ返すことしかできなかった。