がむしゃらに走ってしまったから

あっという間に9月も終わってしまい、10月になってしまいました。
なんだかんだで今年もあと3ヶ月ですよ。

 

昨年夏から年初にかけ実父絡みで色々動いて以降、図らずも実家方面とやり取りする事が増えました。それももう暫く続きそうです。

 本当はそれなりに距離を置いておきたいのですが、実家家族は情報収集が苦手なこともあり、時間に余裕のある私が動かざるを得ない状態にあります。
高齢の両親相手だし、それぞれの家庭の事情もあるし、実際一番面倒な行動に移すのは私以外にお願いしているという事情もありますから、そこは自分の中で落とし所はつけているつもりです。

 

そんな中、先日Twitter上に上がっていた、もちぎ氏の漫画にグッと来ました。

 
氏は「今までひたすら走り続けてきたから、引退したい気持ち」だと。


なんだか自分の中でストンと落ちるような音が聞こえるようでした。

 

30代後半まで、自分のことでも、家のことでも、きっと自分の為になると思って、敢えて困難な選択をしてみたり、不可抗力でイヤイヤ始めたこともそれなりに習慣として身についた。
色々やるうちに、どさくさ紛れで自分が望んでいた夢はそれなりに叶ってしまっていた。
理解ある旦那さんに結婚して家にいていいと言ってもらえ、
夫婦でのもう一仕事であるはずの「子供をもうける」という選択は敢えてしていない

 

子育てを選択をしなかった今の私の状態は、半ば引退者。
まだ、このブログでは実家のことも私のことも殆ど書けていないけど。
正直生き急いでしまったんじゃないかと思うくらい、そこそこに色々あってしまったから。

 

そうやって、実家方面に色々ある度もがくけど、基本的には、これまで以上に穏やかに、嫌いではない家事に専念できる生活をさせて貰えてることに深く感謝しています。

 

そんな秋の夜長に考えたのであります。

「不安定で不自由」をどう生きるか~昔も今もぶれない五味太郎氏に感銘を受けた話~

とうとう全国的に緊急事態宣言が出されました。
じわじわと身の危険が迫りつつあるように感じます。

 

そんな中で、少し前に話題になったインタビューが記事があったのはご存じでしょうか。

かの絵本作家、五味太郎氏のインタビューです。

 

五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方

五味太郎さん、不自由さへの直言「自由なんてのは存在しない」

 

懐かしい。相変わらず静かに、そして的確に今の世の中を眺めていらっしゃる。

「コロナ禍の前までは安定してた?居心地はよかった?」
という、冒頭からのインタビュアーへの逆質問は、実に的を射ていて、何ともたまらないものを感じてしまいました。

 

普段から感じてる不安が、ひるがえってコロナに移っているだけじゃないかな。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。


本当にその通りで、世相的に新型肺炎が世界的に流行りだす前からずっと不穏な空気がなかったわけではないというのは、比較的穏やかに暮らそうと心がけている私でも感じていることで、
それがたまたま重なって、ずっとあった不穏な空気が増幅されて際立ったのだろうなという認識があります。

 

これ以外も氏は記事内で言及されていましてね…。

 

グローバルグローバルって言っても、心でグローバルしてたんじゃなくてお金がグローバルしてただけなんだなとしみじみ思うよね。

自由なんてのは存在しなくて、あると思うから不自由を意識しちゃう。誰でも引力や天気にあらがって生きてるわけだし、鳥は自由でいいななんて言うのは、鳥の大変さ、不自由さをわかってない人。不自由なのは前提だもん。限られた材料や選択肢の中で、悩むしかない。


実に痛快です。
どちらの意見も私自身が薄らぼんやりと感じていたことだったので、ちょっと楽しくなってきました。
(私自身「本当の自由は自分の頭の中にしか存在し得ない」と考えているタイプ)

 

そんな五味太郎氏を知ったのは、訳あって某都市でカツカツの一人暮らしをしていた20代の頃。

お金のない私の唯一の娯楽が「図書館で本を借りて読む」ということでした。

何気なく新刊本の棚を眺めていたその隣の棚に、たまたま児童書を集めた書架がありまして、何気なく見かけて手に取った「ことわざ絵本」で氏の存在を知ります。

そして、その本で氏の魅力を知ることになるわけですが、さらにその並びの先にあった「ヤングアダルト」コーナーで、偶然目に飛び込んできたのが「大人問題」という本でした。類にもれずタイトルに惹かれ、そのまま借りて帰りました。
その当時は、同年代よりあらゆる経験は積んでいるつもりで高を括っていましたが、まだまだ私は何も知らないのだなと読んで思い知らされたのが、その本だったのです。

 

今回の前半の記事でこんなことをいわれています。

心っていう漢字って、パラパラしてていいと思わない? 先人の感性はキュートだな。心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。

 

これは「大人問題」の中でも触れられていて、 

「心」っていう字、好きです。あの形。「権」とか「軍」なんて字はみんながっちりくっついているけれど、「心」ってパラパラしてる。はじめっから乱れている。心を乱すなというのは、心をやめなさい、ドキッとかハッとかモゾモゾっていうのをやめなさいということです。*1

 

この節を始めて読んだとき、ものすごく衝撃を受けたことを今でも鮮明に思い出します。
いつも何かに怯えて、「しっかりしなければ」と思い続けるのが辛く、色々と心の整理を図り始めていた頃だったので、目からうろこがボロボロ落ちる感覚で、ものすごく気持ちが高まったほどでした。


それから数年後、たまたま訪れた古書店で見つけてしまい、当時のあの感覚が蘇って衝動買いしたほど。

 

20年以上前に発刊されたこの本なのですが、今読んでも全くぶれていません。
そして、今回のこの記事なわけです。
すごい…単純にすごい……!

 

あれから私も年齢と経験を重ねて、あの当時はすんなり受け入れられていたことがそうでもなくなっていたりもして、
随分カチカチの大人になってしまっているなあと、改めてこの本を読み返してみて感じます。
(当時からすると、色々と取り巻く状況が激変しているということもあるかもしれないけれど。)


氏の「心が不安定で揺れ動くこと」を「当たり前のこと」ということを前の前から言及しているというブレない認識と、
今回の記事内でそういうものだと認めたうえで、「自分の頭で考え」、「適宜サボる」ことを提案されたことは、
今とこれからを生きていくための指針の一つになるのではないかなあと何となく思うのです。

 

そして私は、この記事を読み、不安定な状況の中で、静かに不自由さの中でモヤっとしながらも、
色々と自分なりの模索をしながら生きていくことは決して間違いではないということを後押ししてもらったようで、
少しだけ晴れやかになったような気がしたのでした。

 

 

*1:大人問題p50より

架空の死と現実の死を重ねてしまう話~ワニくんの100日を追い続けた先で感じたこと(後編)

前編からの続きです。

 

そして、3/21今日のお昼に動画の公開。

 

1日目から最終日まで追ってきた私は、本人たちから語られる本当のところを知りたいと思い、全視聴しました。
既にニュースやまとめツイート等の情報がありますので、ご存知の方も多いかもしれません。

概要を記すならば、

大手広告代理店は関知するところはなく、偶然の一致であるだけで、この作品に関わる人たちの「何とか昨日までに間に合わせたい」という熱量ありきで、成した結果であるとのこと。
そして作家さんがこの作品を発表する上で、何を考え、描いてきたのか。その流れで各種プロモーションの打診を受けた経緯を説明。
その際には涙ぐまれ、言葉に詰まってしまうシーンもあり、そもそもマネタイズの件については他意はなく、「悲しい…どうしてこうなってしまったのか…」ということを言及。

こんな感じかと思います。

 

「他意はない」
作家さん自身の実体験が元になっていることもあり、作家さんのお人柄と共に、それは痛いほど伝わりました。
最終回に間に合わせたい!その一心で関係者さんはとても努力をなさったということも伝わりました。
ただ、どこかの時点で「作家・関係者側」と「読者側」の熱量の方向性がずれてしまったのかもしれないということも感じました。

 

それだけに
こんなに思い入れがある作品なのに、どうしてプロモーションの告知に関して慎重になれなかったのだろうか
と勝手ながらも思ってしまったというのが、熱心な一読者としての本音です。


だからといって、先に述べたようにそういうマネタイズを全て否定するつもりはありません。
正直に言うと、あの最終回であれば、後日談は読みたいと思いますし、後日談あってワニくんの弔いを終えることができるような気がします。

 

ただ、なぜ最終日当日だったのか…それが一読者としてとても、その点がとても悔やまれるのです。

 

比較対象を持ち出して申し訳ないですが、
以前Twitter発某動物4コマが大ブレイクした時も、今回と同じように熱心な一読者でありました。
そのマネタイズの経緯や様子を逐一眺めていたこともあり、今回のワニくんの件はどうしても違和感を持たずにいられなかったのです。

この某動物4コマの作者は書籍化の話が来たときには、「こんな流れになりそう」など、Twitterで予め告知をしていたのです。グッズ化やコラボの話も然り。
そういう様子をみて、微笑ましく心待ちに思っていたものです。実際書籍化された本も複数巻出ていますが、購入済みです。

 

かたや今回はLINEスタンプの告知こそあったものの、それ以降は日常のつぶやきもなく、
全く告知なしで、いきなりの最終回前日の書籍化告知、最終回でコラボと更なるマネタイズ告知…


そういうプロモーション方法だと言われてしまうと、一読者としては何も言えませんが、
ただでさえセンシティブである「死」を扱っているのに、やっぱりそれはないのではないか?と思わずにいられません。

 

70日目くらいから「こういうプロモーションのお話がきています」というようなそれとない告知が都度あってもよかったのかなと。
最終回を迎えてから以降の告知でも、このワニくんの話は強く惹きつける内容でもあるので、そんなにすぐ下火になることはなかったのではないかと思うのです。(が、これは一読者の肌感覚なので、何とも言えないかとは思います)

 

とはいえ、事の経緯の配信動画を見て、今現在の作家さんと関係者の思う所が聞けたので、
私の悲しいと思う気持ちは随分落ち着いてきています。随分勝手な話であるのは承知の上で。

 

そういう心持ちになったので、改めてワニくんの100日を読み返しています。
日常によくありそうな風景が鮮やかに、そしてここまで「生きる機微」を感じられる作風になっていることは、本当に素晴らしい。
だからこそ架空でありながら共に生きているような錯覚を覚えるほど、私自身の中で育っているのだと思っています。

作家さんや関係者の皆さんがワニくんを大切に育ててきたように、一読者の私自身の中でもワニくんが育ちすぎてしまったのかもしれません。

 

ただ、最終日・翌日の一件があり、書籍化された本を手に取れるかというと、今の心持の私には正直自信はありません。
しかし、私の中でワニくんの弔いが済んだと思える日が来たら、きっと購入してしまうのでしょう。

(奇しくも、書籍発売日は4/8。この日はお釈迦様の誕生日「花まつり灌仏会)なんですよね…偶然といわれるとそれまでなんですけど、そういう風に考えたいものなんですよ、熱心な一読者としては…(苦笑))

 

色々と、また長々と一読者として御託・わがままを正直に書き綴ってきましたが、
「架空の死」なのに「現実の死」として思い重ねてしまうほどのこの作品は、やっぱりは無下にはできないし、してはいけないという、私の中での大切なお話の一つになったのだと強く思うのです。

架空の死と現実の死を重ねてしまう話~ワニくんの100日を追い続けた先で感じたこと(前編)

今、絶賛話題になっている事柄を取り上げるのことをあまりやってこなかった当ブログですが、
管理人自身とても思う所があり書いてはみたものの、ブログに挙げてしまってよいのか大変迷いました。
それでも今回は渦中覚めやらぬ中で敢えて取り上げてみたいと思います。

 

そう、あのTwitter4コマ「100日後に死ぬワニ」です。
ついに3/20に最終回を迎えました。

 

漫画自体は桜咲く中での出来事をはっきりとした形での描写はないものの、心に響く最期でありました。何度も何度も読み返しました。

まあ、無事到着点に達して、しみじみ考えていたところに飛び込んできたのが、映画化・グッズ化などのプロモーション告知。

喜びの声もある中に、
なんとも言えないもやっとしたものを感じた人もまたそれなりにいて、
賛否が飛び交った結果、プロモーションの方法を巡る関与の誤解で大炎上してしまい、
結果作家さん本人と関わったバンドメンバーのリーダーさんが経緯を説明する動画を公開するというところに至っています。(3/21時点)


※3/22AMに作者本人の言及ツイートが発表されましたが、この記事はその前に作成しましたので、この記事では触れません。


マネタイズ歓迎・正当であるという声が上がる中での、最終回公開の時点での私の感想は、作家さんには大変申し訳ないのですが、その情報を知った瞬間、何だか悲しくなってしまったのです。

 

マネタイズが「歓迎・正当である」という言い分はわかります。

100日間、定刻更新の為に描き続けた労力は相当なものだったことでしょう。
先を予想するリプライ4コマもちらほら見かけ、連載を続けるには心労察するに余りあるところもあります。
なので、それなりの対価を得ることは妥当であるというのは、至極尤もな話。
話が進むにつれ、話題に火がつき、各社プロモーションがかかったということも想像できます。
ですので、書籍化・映画化・グッズ化という流れは止められませんし、いずれも悪いとは思いません。

 

ただ。
やっぱり私はもやっとしてしまう。

 

それは普通に「楽しむだけの4コマ連載」とは少し違う感覚で読んでいました。
私は100日目の最終回を創作物の最期と捉えておらず、「あのワニくんの最期(命日)」という風に捉えていました。

 

そもそもこの4コマ連載は「死ぬこと前提」で話が進んでいます。
どんな「死」を迎えるのか、「死」が迫りつつある中、「彼の死」をどういう風に受け止めればいいのか、
架空の話ではあるものの、現実の死と錯覚するくらい私自身は強い思いを持って日々の更新を待ち、見守っていたのです。
笑われるかもしれないけども、たぶんワニくんと同じ時間軸で、私も一緒に生きていたのかもしれない。

 

そして迎えた最期。

 

「現実に生きる人の死と同じように、静かに弔いたい」という気持ちが強く出ました。

どんな気持ちでワニくんはみんなの元へ向かっていたのだろう、これから先どうやって生きていくはずだったのだろうと。

 

そんな余韻にふけり、思いしのびたいと思った矢先に飛び込んできたのが、例のプロモーション情報だったのです。

 

半ばワニくんの死を冒涜されているかのようにすら感じられてしまいました。架空の話なのに。
私のはどうしても「創作物の最期」とだけには思えませんでした。

 

それは私自身が比較的、身近な人の死や葬儀参列の経験の多さが影響しているような気がします。
小3の頃の母方の祖母の死から始まり、同級生の不慮の死、ネットで知り合って相談を受け、実際話したことのある人の自殺など、
親戚やご近所、職場関連での葬儀・火葬場参列等、かなり遭遇してきていると思っています。
そういう所から、死に対しては「真摯に粛々と弔うもの」という認識が強くあります。

 

これも笑われるかもしれませんが、ワニくんにもこれまで触れてきた「死」の経験の延長として、同等の気持ちを持っていました。

 

「創作として、反応がある内の告知は経済活動的に当然だ」という理解はもちろんあります。

 

しかし、私はそれを凌駕するくらい気持ちが揺さぶられたのです。
だから、
「少し静かにワニくんを弔うことはできないのか」「その余韻にすら浸ることすら許されないのか」
一読者として、どうしてもそのように思ってしまいます。

 

もう少し強いことを言ってしまうと、「経済活動だ」と言い切ってしまえるのは、
実際の死に直面し、人の死を弔う経験のない人なのではないかとすら思えてしまうのです。


最終回公開の時点では
大げさかもしれませんが「死のマネタイズ化」のような衝撃を受け、どうしても私は一人悲しくなってしまったたわけです。
と同時に、一定の熱量を持って読んでいた一読者として、「どういった経緯でこうしたプロモーションになったのか」という説明と、作者さん本人の言葉があれば良いなあとも思っていました。
ワニくんプロモーションの件は別会社に一任しているような印象だったので、ご本人からの説明は難しいかもしれないとすら最終回公開日の時点では感じていたのです。

 

思いのほか長いので後編に続きます… 

 

「箸の使い方がなぜ大切なのか」を考える

ネットから得る情報も多いですが、テレビで話題になった結果、改めてネットで詳しく知りうるということが結構多い私。

 

今回取り上げる「箸の持ち方」についての騒動がまさににそれなのです。

 

「昨年ネットで炎上したお子さん」の親御さんのSNSにそのお子さんの「箸を使っている」画像が掲載されたことが、今回の騒動の発端らしいのですが、

それに某メジャーの方も言及されたことで話が大きくなり、次々に有名どころの方々に飛び火してしまったとのこと。(某メジャーの方には冗談でも「令和のスタンダード」などとは言ってほしくなかったけど。)

 

結論から申し上げると、

まあ…持ち方は個人それぞれどう持とうと、本人が良ければいいのかもしれないと思う反面、日本に生まれ育ったのだったら「芸は身を助く」ではないけれど、やはり所作の基本として、よりきれいな箸の持ち方をしている方か色々得する面が多いのではないかな?と思っています。

そう思うのは、自分の経験上そうした場面に出くわして、救われたということがあったからでした。


子供のころから辺境の片田舎で貧しい暮らしをしていた私は、食べ方を含め、箸の使い方はちゃんとできたほうが良いという母や祖母の教えもあり、結構厳しめにしつけられたように覚えています。
その時に言われたのが、

「どんなに人間としての中身ができていても、所作ひとつで自分自身がダメだとみなされることがある。そうならないためにきれいに使えた方が、将来自分を助けることになる」

「これだから貧乏な家の出身は…と足下につけ込まれないためにも必要である」

ということ。


そんな感じでしつけられたので、きれいかどうかはともかく、おかげさまで普通に箸が使えるようになりました。

 

そんな「箸の使い方」を試される時がある日突然やってきます。

そう、忘れもしない。高校卒業後、すぐに新聞奨学生として一歩を踏み出したあの時。
販売所に住み込みで働くための事前研修を終えて、住み込み先の所長と初対面をた果たした後に「お昼ご飯を食べよう」となり、新聞社近くの和食料理店に案内されるままに入っていきました。


食事は自分で選べるものかと思っていたら、席について、すぐさま所長が「かれいの煮つけのやつ2つ!」と慣れた口調で私の分まで注文したのです。
注文した後に「魚、食べられるやろ?」と言われ、あっけにとられながら生返事しかできませんでした。
生返事しかできなかったのは、「これが昔聞かされていた、あのことか!」とピンときたからです。

そう、祖母や母が言っていた、「どんな家の出身か、箸の使い方と魚の食べ方で私のことを見抜こうとしている」のではないかということ。

 

ここで所長の立場で考えてみましょう。

これから数年、どこの馬の骨ともわからない地方出身の学生を、販売所兼家族の住む自宅ビルに住まわせるのです。
所長家族と部屋は別々にしろ、同じ屋根の下で暮らすということを、しかもそれを何十年と受け入れ、新聞奨学生の制度を支えている立場であれば、こうしたことをするのは、至極当然のことだということを、今となっては理解できます。
事前書類では分からない部分を、そうした所作で見抜くしかないのです。

 

その当時の私は、ここまで思慮深い訳ではなかったので、ただ単純に、子どもの頃から言われていた「足下につけ込まれないための所作」とは、こういう場面で試されるのだと直感的に感じたわけです。

所長と私の出身地の話について軽く話をするうちに、かれいの煮付け定食が目の前に出されます。
かれいの煮付けを目の前にし、「ああ、ここで私の印象が決まる…」という緊張感が駆け抜けたそのすぐ後に、一抹の不安が掠めます。

 

「いただきます」

 

いつになく丁寧に食事前の言葉を唱え、所長も私も言葉少なに定食を食します。

高卒間もない小娘が、よく知らないコワモテ風のおじさんと食べにくいと定評のあるかれいの煮付けを食べなければならないことは、これから数年お世話になるとは言え、正直しんどい…。

何となくこれからの学生生活を暗示しているような、なんとも言えない気持ちになったことを今でも鮮明に思い出せます。

所長はさっさと食べ終えて、私の所作を見ながらポツポツ私の出身地(に近いところ)についての知りうるエピソードを話します。

私はというと、箸使いに気を配りながら、なおかつなるべく綺麗にさっさと食べようと必死でした。
とかくかれいは食べにくいので、薄付きの身を崩し過ぎないように丁寧に食べます。
食べるペースも基本的に早くなかった上、その辺にも気を配りながらなので、所長の話の内容なんてまるで入ってきません。

 

生きた心地がしないまま、何とかそれなりに食べ終えた私。
ずっと所作を見ていた所長はどのように思ったのだろうとヒヤヒヤが止まりません。

 

「綺麗に食べるなあ。流石は海の見えるところの出身なだけはぁ、あるわなぁ」

 

所長の一言に、正直ホッとしました。
とりあえず人物評価は及第点以上はつけてもらえたような気がしたのです。

箸の使い方、食べ方、ちゃんと教わっていてよかった…本心からそう思った経験だったのでした。

 

…この話がかれこれ20年強ほど前の話。

 

現在ではそこまで求められることは少ないかもしれませんが、それでもある一定年齢以上の方々は、人を見る尺度として箸の使い方と食べ方を重きに置かれる方は多いと思うし、私自身も口には出さずとも、箸の使い方を見てしまいます。
何においても、第一印象は大事と言いますが、食事の際の印象はさながら強く残るような気がします。
そうでないと、そんな昔の話がここまで鮮明に残っているはずがありません。

 

そもそも、マナーというものは「相手に要らぬ先入観を持たせないための武器」というか、全般的にそういう意味合いがあるのかなと思っています。
かくいう私がそんなにマナーに関してできているかといえば、どうだろうかと思うところはあります。
自分ができていると思っても、相手はそう感じないこともあるでしょう。
だから、最低限のラインでできていれば、もしくは最低限相手に不快感を与えなければよいのではないのかとは思い、できる限り対応してきたつもりです。まあ、これも人それぞれの価値観によるのでしょうけど。

 

ただ、どうしてここまで箸の持ち方に対して風当たりが強い反応が多くなってしまってるのかというのは、「日本人」であればこそだからと思うのです。個人的な感覚ですが。)
日本で生まれ育ったというアイデンティティみたいなものが少なからず存在しているのにも拘らず、それが薄らいでいるように感じてしまうから、私を含む一定の年齢を超えた「日本人」は見てられなくなってしまうのかなと。
今回の一般的に良しとされない箸の使い方に関して、強めの言及が多くされてしまったのはそういう所があるからなのかなあと何となくですが、勝手にそう思っています。

 

小難しいことを色々書いてしまいましたが、
私は強烈な経験をもって箸の持ち方の必要性を実感できたし、ちゃんと教わっていたおかげで大切な場面での難を逃れることができたわけです。
そんなことがあったからこそ、自分自身を助けるための武器として、やっぱり全うに使えるようになっておく必要性があるのではないかな…

…ということを言いたくなってしまって書いている私は、やっぱりそこそこ年齢を重ねてしまったのだなあと思うのと同時に、必要な時にきちんと教えられる人間でありたいです。


ま、その前に人のことを言ってないで、私自身が自分自身に気を配っていかなければならないなあと思うのでした。

4時禁について思うこと

先日話題になっていましたが、「4時禁 *1」なる言葉があるそうで。
朝のワイドショーでその言葉を取り上げられていた様子を私は偶然見ていました。 

岐阜周辺の中学校でそういう習慣があるとのことで、辺境の田舎出身の私の中ではそんなことは聞いたことも経験したこともありませんでした。

 

番組での取り上げられ方は、「4時禁」を擁護する意見もほんの少し挟みつつも、「4時禁はおかしい、間違っている」というスタンスでの構成であり、スタジオコメンテーターもその流れに乗っかるという形で展開されているように見えました。

 

それを受け、私が思うのは『そんなに4時禁って悪いものなのかな?』ということです。
生粋の内向型人間の私にすれば、4時まで自宅でこっそりひっそり過ごせるなんて至福以外の何物でもないと考えるタイプだからです。

 

私の昔話をしましょう。

 

私が中学生の頃は、「学校全体で部活動を推奨する」という、半ば義務のような位置付けをされていました。
そういう背景もあり、病院やケガ、家族の不幸のようなよっぽどの理由がない限り、部活動を休むなんてことは許される雰囲気ではなかったわけです。

子供の数が限られる辺境の田舎地域なので、学校外のクラブチームなんて存在しません。
ですから、学校の部活動が地域のクラブチームと同様の扱いだったわけです。
よって、授業が土曜や平日が半日の場合は、お昼休憩で自宅に帰り(もしくはお弁当持参で)、食事を済ませた後にそのまま部活動に参加し、夕暮れまで練習するというのが当たり前のルーティンになっていました。

そもそも私自身、部活動を始めた経緯が、それをやりたくてやっていたわけではなく、断るに断れない状況の中でやむなく始めたようなものでした。
自分のペースで参加できるような(イメージのある)美術部のような文化系の部活動ならまだしも、文化系なのに半ば体育会系さながらの吹奏楽部に所属していたので、毎日の練習も乗り気じゃないところに、そういう半日授業時後の部活動というのは、正直大嫌いだったのです。
(まあ、私自身、自宅に帰っても正直生きた心地はしないような感じだったので、どっちもどっちなのですが、それはまた別のお話。)

 

前述の通り、どの部活動に入っても、気軽に休める雰囲気ではないので、「少し体調悪くて大事を取って休みたいな」と思っても、それをおして部活に出ることは当然のこととして認識されていました。
特に吹奏楽部は「一日休むと三日遅れる」とか「せっかくできた口の形が休むと崩れる」とか言われ、下手すると体育会系部活動より休むことに対しては厳しかったかもしれません。

 

まあ、私の昔話はこの辺にしておきましょう。


とにかく、そんな感じで中学時代の放課後生活を送っていたため、今回の「4時禁」の話は何のことだかさっぱりわかりませんでした。
その時間帯は部活動やっているものではないのか?と思ってしまったのです。

ところがそうじゃない地域もあるらしい…そして帰宅後にはその時間まで自宅待機という実体らしい…。
学校で部活動を行っているという話は何一つ出ませんでした。


ワイドショー内では、「4時禁」擁護の意見はすっかり霞んでしまい、「外出できないのはおかしい」だの「学校側が生徒の行動を決めてしまうのはいかがなものか」だのと全否定の勢いでした。
余りに「4時禁」に対して否定的な流れが出来上がっていて、そっちの方がよっぽど気持ち悪いなと感じました。

 

前述通り、私自身は4時禁は決して悪いものではないという感覚でいます。
私のように一人でひっそり過ごすことを好む人間には、こんな至福な時間はないのではないかと思わずにいられないのです。
それをそんなに大騒ぎする必要があるのかが私にはわかりません。

 

今は放課後の学童クラブがある地域もあるという事例から、それに習って導入してみてはいいのではないかと思うし、
体を動かしたいと生徒達には、学校部活動か地域クラブチームを準備したらいい。

そういう仕組みすら作れないくらい、学校として疲弊しているのか…それなら何も言えないのですが。

 

番組の中では、「4時禁」そのものを廃止した学校の事例を紹介していたので、そうできるのであれば、それでもいいと思います。

ただ、私が言いたいのは、「部活動や学童をやれ!4時禁を廃止しろ!」というものではありません。

家で過ごすことを悪のように見なしている風に見えることが、そもそもおかしいような気がしているのです。

今の世の中は外向き意識の活発さが良しとされる社会であることは認めます。その視点から見ると「元気な子供たちを家に閉じ込めるなんて!」という風になるでしょう。
ただ、世間にはそっとしておいてほしい、静かに過ごしたい、家にいるのが苦にならないような内向き気質を持ち合わせている人間も少なからず存在するということも知ってほしいのです。
そうした人間から見れば、4時禁について違和感はないだろうし、むしろ歓迎な向きもあるのではないでしょうか。

 

正直私は4時禁がうらやましいと思います。
当時の私は(現在の私から見ても)部活なぞせず、(自宅が安心できる場所であれば)自分の部屋でひっそり本を読んだり、絵をかいたり、音楽を聴いたりしてみたかった生徒だったのです。


それ以外の他意はなく、私が「4時禁」を知って感じたのは、ただそれだけなのでした。

 

*1:学校の授業がどれだけ早く終わってもすぐに下校・帰宅をして、夕方4時(16時)までは外出を禁じ、自宅で勉学や読書などを行う時間に充てること。下校時刻から4時までの間は教師が車などで学校周りや街を巡回し、遊んでいる生徒を見つけると強制的に反省文を書かせるなどの処罰を与える。中学校だけでなく小学校でも4時禁が出ているところがある。ただし校則として明記している学校は少なくほとんどが口頭指導によるもの【言葉の手帳さんより】

「HSP」の私あれこれ

ざっくり自己紹介に「HSP」という言葉を紹介したままになっており、それが何であるかを説明しないままになっていたので、改めて解説の意味もこめて、私自身が「HSPでこんな感じである」ということを書いていきたいと思います。

 

そもそもHSPとは、何なのでしょう?

最近はちょこちょこ見かけるような気もしますし、このブログをご覧頂いている方は既にご存知かもしれませんが、導入として、敢えて触れさせていただきますね。


ユング派の心理学者で研究者でもあるエレイン・N・アーロン博士が提唱した
比較的新しい概念のことであり「ハイリー・センシティブ・パーソン」の略のこと。
繊細であったり、感受性が他人より強く感じるというような、
様々な刺激に対して反応しやすい人たちのことを示しています。

自分がHSPかどうか診断できるテストは以下のとおり。

 

・自分をとりまく環境の微妙な変化によく気づくほうだ
・他人の気分に左右される
・痛みにとても敏感である
・忙しい日々が続くと、ベッドや暗い部屋などプライバシーが得られ、刺激から逃れられるところにひきこもりたくなる
・カフェインに敏感に反応する
・明るい光や強い匂い、ざらざらした布地、サイレンの音などに圧倒されやすい
・豊かな想像力を持ち、空想に耽りやすい
・騒音に悩まされやすい
・美術や音楽に深く心を動かされる
・とても良心的である
・すぐにびっくりする(仰天する)
・短時間にたくさんのことをしなければならない時、混乱してしまう
・人が何かで不快な思いをしている時、どうすれば快適になるかすぐ気づく
(例えば、電灯の明るさを調節したり、席を替えるなど)
・一度にたくさんのことを頼まれるのがイヤだ
・ミスをしたり物を忘れたりしないようにいつも気をつける
・暴力的な映画やテレビ番組は見ないようにしている
・あまりにもたくさんのことが自分のまわりで起こっていると、不快になり神経が高ぶる
・空腹になると集中できないとか気分が悪くなるといった強い反応が起こる
・生活に変化があると混乱する
・デリケートな香りや味、音、音楽を好む
・動揺するような状況を避けることを、普段の生活で最優先している
・仕事をする時、競争させられたり、観察されていると、緊張し、いつもの実力を発揮できなくなる
・子供のころ、親や教師は自分のことを「敏感だ」とか「内気だ」と思っていた

*1

 

この質問で12個以上該当すれば、恐らくHSPである可能性が高く、
仮に該当項目が少なくても、突出して当てはまる場合もHSPの可能性が高いといわれています。


似たような質問項目もあるような感じもしますが、類にもれず、HSPテストで殆どの項目があてはまる私のとりわけ突出したHSPの特徴と思うものを上げてみます。

 

●忙しい日々が続くと、ベッドや暗い部屋などプライバシーが得られ、刺激から逃れられるところにひきこもりたくなる

そう、ほんとこれ。引きこもりたくなる、というか本当にそっとしておいて欲しい。
多忙でなくてもそのように思うので、根っからの孤独体質といってもいいかもしれません。

独身時代、経験してきた職がサービス業中心だったせいか、かなり気持ち的にすり減らしていたので、その埋め合わせをしようと必死だったように思います。
実家から職場に車通勤だった頃には、まっすぐ家には帰らず、通りがかりの道の駅や公園などでぼんやりしてから帰宅するとか、自宅に隣接の駐車場がなく、少しはなれた場所に普段駐車していたので、その駐車場に停めて車内でぼんやりとかいうのはよくやっていました。
基本的に実家で一番落ち着く場所は布団の中。自室がなかった実家では唯一安心できる私のテリトリーでありました。

時が経ち、結婚するとなった際、予算の都合上、自室を得られなかった私は「ぼっちテント」を要求したこともありました。
(ただ、完全に専業主婦になったため、旦那さんが勤務中の日中は実質一人ということで、購入は回避しました)

それぐらい、本当にそっとしておいて欲しいと思ってしまうのです。

 

●明るい光や強い匂い、ざらざらした布地、サイレンの音などに圧倒されやすい
●騒音に悩まされやすい

特に音に関しては当てはまっていて、就寝時には耳栓が手放せません。
夜中でも救急車やパトカーのサイレン、走り屋のエンジンの爆音がすると目が覚めてしまいます。
(私は気が付くのに、旦那さんは全く気が付かなかったということはデフォルト)
普段の生活でも、テレビの音(特にCM)やカーステレオの音が少しでも大きいと辛くなることが多々あります。
カーステレオはラジオ以外はかすかに耳に届く程度で十分。
たまに運転中の信号待ちで漏れ聞こえてくるカーステレオの音ですら気になってしまう、ちょっと困った体質。
旦那さんとテレビを見ていても、私がうるさがるのでしょっちゅう音を小さくしてもらわないといけなくて申し訳なく思っています…

大音量の代名詞であるカラオケは、歌うことが嫌いではないので、テンション上げてたまに行くのですが、2時間以上経つと段々テンションが下がってきます。
2時間の間でもドリンク取りに行ったりお手洗いに行ったりで小休止は必要です。
お祭りなんかの大きいスピーカー音や映画、コンサートライブも、その時は楽しくても、終わった後にのぼせ疲れてしまうので、クールダウンがもれなく必要でもあります。
その時の体調次第では数日引きずってしまうくらいなので、体調管理が必須です。


●暴力的な映画やテレビ番組は見ないようにしている
●デリケートな香りや味、音、音楽を好む

暴力系も苦手ですが、ホラー系や心理的に恐怖を迫るような作品も苦手な部類です。
(今年話題になった「カメラを止めるな」も正直辛かったくらい苦手)
プロレス・ボクシング等の格闘技系、「言葉の格闘技」ともいわれる討論番組も苦手です。
体調によっては、ただ意見を言い合うワイドショーでも見ていられない時があります。
いらないほど自分の中に汲み取ってしまうため、体調が優れない時は、クラシック音楽が背景に流れているような環境系CHにしていることが多いです。
そういうこともあり、優しい風合いを感じさせるものを好みます。
音楽は基本的に好きなのですが、ジャズやボサノバ、クラシック等をよく聴きます。
状況によっては、歌っている歌詞が邪魔に感じることもあり、歌なしのイージーリスニングやインストゥメンタルも好んで聴きます。(特に運転中)

味に関して話すと、サラダには余りドレッシングなどはかけません。
調理されたおかずの味で事足りることが多いので、基本的に薄味です。
たまに濃い味が食べたくなって、そういう時は決まって食べ過ぎてしまい、胃もたれを起こしてしまうのもあるあるな話です。


●豊かな想像力を持ち、空想に耽りやすい

自分自身が触れるもの(音楽・本・人、時には訪問先の土地・風土まで)の背景を色々と考えてしまう。
ネット検索(ウィキペディア)で掘り下げることはデフォルト。特に訪問先の風土・歴史はよく調べ、その時代に生きた人々のことなどを想像し、考えることもデフォルト。
旦那さんに驚かれるのは、顔写真を見るだけで何となくその人となりを言い当ててしまうこと。
実家にいた頃は、母親の職場の人の「人となり」を母親との会話から察していき、勤め人である母親以上に把握してしまっていることがあって、何だか母親の人生相談を受けるような感じになってしまっていたこともありました。
ただ、私自身はそんなに意識はしておらず、「何となくこんな感じがするなあ」程度で感じるので、実際はそんなに言い当てられることもなく、大してすごいことだとは思っていないのが現実。(本当に能力が長けているのであれば、多分専業主婦にはなっていないでしょう…^^;)

 

●自分をとりまく環境の微妙な変化によく気づくほうだ
●生活に変化があると混乱する

微妙な変化に気が付く、この特徴を私は「お察し能力」と呼んでいますが、先に書いたように、人となりをそれとなく言い当ててしまうということと同様に想像力が豊かなことが影響しているのかと思っています。

このことが影響するのか、どうなのか、とりわけ環境が違うとそれに慣れるまでに
人より時間が掛かりがちではあります。
これまでの職場経験からでお話しするなら、自分と波長の合いそうな人、もしくはリスペクトできそうな人がいるなら、比較的早いうちに環境慣れできるのですが、慣れようと努力をするも、自分の中で仕事の内容や同僚との違和感を感じてしまうと、そこまで積み上げてきたものが少しずつ崩れていってしまい、再起不能(退職)になってしまい、周りに迷惑をかけることにもつながり、それによっても自分自身が打ちのめされてしまうのです。

プライベートでは、コンサートライブや旅行などでホテル宿泊する際も、昔からよく眠れた試しがありません。

これらもこの性質が影響しているものだと思います。


●とても良心的である

これもよく当てはまるものと感じています。基本的に周囲への配慮に重点を置きがちなので、「モラル」に関しては人一倍厳しい部分も持ち合わせています。
これは家庭環境の悪さから「反面教師」として、幼い頃から家族や周囲を眺めてきてしまった弊害ともいえます。
故に、生きるうえでの矛盾を多く孕む事になり、余計に自分自身を追い詰めるというマイナス要素にもなりがちで、克服すべき点という自覚もあります。


解説が書けるくらいの当てはまる項目が9個もあるというのは、自分でも笑ってしまいます。

端から見れば、「そんなに神経とがらせなくても…」とか「気にしなきゃよくね?」とか「わざわざ生きにくいように生きている」という風に思われても仕方ないかもしれません。

私自身もそう思い克服しようと努力をしてみても、どうしても頓挫してしまうことから「どうしてこうなってしまうのか」を知りたくて、いろいろ調べてみてたどり着いた結果が自分自身が「HSP」だということだったのです。

このことを知って、正直ホッとしたのが本音でした。てっきり「社会不適合者」ではないかとまで追い詰めてしまっていたから。

検索で調べた結果、意外に同じように感じていらっしゃる方が多いことも知ることができました。

私の事例がどこまで共感が得られるかは定かではありませんが、「こういう事例もあるよ」ということで、HSPのたたき台にでもしていただけるとありがたいかな、と思います。

 

 管理人のことをざっくりすぎるくらいざっくり書いた自己紹介はこちら↓

「ざっくりすぎるくらいざっくりな案内」という名の自己紹介 - はぱささ ~今、ここ~

*1:エレイン・N・アーロン著 ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ より