「箸の使い方がなぜ大切なのか」を考える

ネットから得る情報も多いですが、テレビで話題になった結果、改めてネットで詳しく知りうるということが結構多い私。

 

今回取り上げる「箸の持ち方」についての騒動がまさににそれなのです。

 

「昨年ネットで炎上したお子さん」の親御さんのSNSにそのお子さんの「箸を使っている」画像が掲載されたことが、今回の騒動の発端らしいのですが、

それに某メジャーの方も言及されたことで話が大きくなり、次々に有名どころの方々に飛び火してしまったとのこと。(某メジャーの方には冗談でも「令和のスタンダード」などとは言ってほしくなかったけど。)

 

結論から申し上げると、

まあ…持ち方は個人それぞれどう持とうと、本人が良ければいいのかもしれないと思う反面、日本に生まれ育ったのだったら「芸は身を助く」ではないけれど、やはり所作の基本として、よりきれいな箸の持ち方をしている方か色々得する面が多いのではないかな?と思っています。

そう思うのは、自分の経験上そうした場面に出くわして、救われたということがあったからでした。


子供のころから辺境の片田舎で貧しい暮らしをしていた私は、食べ方を含め、箸の使い方はちゃんとできたほうが良いという母や祖母の教えもあり、結構厳しめにしつけられたように覚えています。
その時に言われたのが、

「どんなに人間としての中身ができていても、所作ひとつで自分自身がダメだとみなされることがある。そうならないためにきれいに使えた方が、将来自分を助けることになる」

「これだから貧乏な家の出身は…と足下につけ込まれないためにも必要である」

ということ。


そんな感じでしつけられたので、きれいかどうかはともかく、おかげさまで普通に箸が使えるようになりました。

 

そんな「箸の使い方」を試される時がある日突然やってきます。

そう、忘れもしない。高校卒業後、すぐに新聞奨学生として一歩を踏み出したあの時。
販売所に住み込みで働くための事前研修を終えて、住み込み先の所長と初対面をた果たした後に「お昼ご飯を食べよう」となり、新聞社近くの和食料理店に案内されるままに入っていきました。


食事は自分で選べるものかと思っていたら、席について、すぐさま所長が「かれいの煮つけのやつ2つ!」と慣れた口調で私の分まで注文したのです。
注文した後に「魚、食べられるやろ?」と言われ、あっけにとられながら生返事しかできませんでした。
生返事しかできなかったのは、「これが昔聞かされていた、あのことか!」とピンときたからです。

そう、祖母や母が言っていた、「どんな家の出身か、箸の使い方と魚の食べ方で私のことを見抜こうとしている」のではないかということ。

 

ここで所長の立場で考えてみましょう。

これから数年、どこの馬の骨ともわからない地方出身の学生を、販売所兼家族の住む自宅ビルに住まわせるのです。
所長家族と部屋は別々にしろ、同じ屋根の下で暮らすということを、しかもそれを何十年と受け入れ、新聞奨学生の制度を支えている立場であれば、こうしたことをするのは、至極当然のことだということを、今となっては理解できます。
事前書類では分からない部分を、そうした所作で見抜くしかないのです。

 

その当時の私は、ここまで思慮深い訳ではなかったので、ただ単純に、子どもの頃から言われていた「足下につけ込まれないための所作」とは、こういう場面で試されるのだと直感的に感じたわけです。

所長と私の出身地の話について軽く話をするうちに、かれいの煮付け定食が目の前に出されます。
かれいの煮付けを目の前にし、「ああ、ここで私の印象が決まる…」という緊張感が駆け抜けたそのすぐ後に、一抹の不安が掠めます。

 

「いただきます」

 

いつになく丁寧に食事前の言葉を唱え、所長も私も言葉少なに定食を食します。

高卒間もない小娘が、よく知らないコワモテ風のおじさんと食べにくいと定評のあるかれいの煮付けを食べなければならないことは、これから数年お世話になるとは言え、正直しんどい…。

何となくこれからの学生生活を暗示しているような、なんとも言えない気持ちになったことを今でも鮮明に思い出せます。

所長はさっさと食べ終えて、私の所作を見ながらポツポツ私の出身地(に近いところ)についての知りうるエピソードを話します。

私はというと、箸使いに気を配りながら、なおかつなるべく綺麗にさっさと食べようと必死でした。
とかくかれいは食べにくいので、薄付きの身を崩し過ぎないように丁寧に食べます。
食べるペースも基本的に早くなかった上、その辺にも気を配りながらなので、所長の話の内容なんてまるで入ってきません。

 

生きた心地がしないまま、何とかそれなりに食べ終えた私。
ずっと所作を見ていた所長はどのように思ったのだろうとヒヤヒヤが止まりません。

 

「綺麗に食べるなあ。流石は海の見えるところの出身なだけはぁ、あるわなぁ」

 

所長の一言に、正直ホッとしました。
とりあえず人物評価は及第点以上はつけてもらえたような気がしたのです。

箸の使い方、食べ方、ちゃんと教わっていてよかった…本心からそう思った経験だったのでした。

 

…この話がかれこれ20年強ほど前の話。

 

現在ではそこまで求められることは少ないかもしれませんが、それでもある一定年齢以上の方々は、人を見る尺度として箸の使い方と食べ方を重きに置かれる方は多いと思うし、私自身も口には出さずとも、箸の使い方を見てしまいます。
何においても、第一印象は大事と言いますが、食事の際の印象はさながら強く残るような気がします。
そうでないと、そんな昔の話がここまで鮮明に残っているはずがありません。

 

そもそも、マナーというものは「相手に要らぬ先入観を持たせないための武器」というか、全般的にそういう意味合いがあるのかなと思っています。
かくいう私がそんなにマナーに関してできているかといえば、どうだろうかと思うところはあります。
自分ができていると思っても、相手はそう感じないこともあるでしょう。
だから、最低限のラインでできていれば、もしくは最低限相手に不快感を与えなければよいのではないのかとは思い、できる限り対応してきたつもりです。まあ、これも人それぞれの価値観によるのでしょうけど。

 

ただ、どうしてここまで箸の持ち方に対して風当たりが強い反応が多くなってしまってるのかというのは、「日本人」であればこそだからと思うのです。個人的な感覚ですが。)
日本で生まれ育ったというアイデンティティみたいなものが少なからず存在しているのにも拘らず、それが薄らいでいるように感じてしまうから、私を含む一定の年齢を超えた「日本人」は見てられなくなってしまうのかなと。
今回の一般的に良しとされない箸の使い方に関して、強めの言及が多くされてしまったのはそういう所があるからなのかなあと何となくですが、勝手にそう思っています。

 

小難しいことを色々書いてしまいましたが、
私は強烈な経験をもって箸の持ち方の必要性を実感できたし、ちゃんと教わっていたおかげで大切な場面での難を逃れることができたわけです。
そんなことがあったからこそ、自分自身を助けるための武器として、やっぱり全うに使えるようになっておく必要性があるのではないかな…

…ということを言いたくなってしまって書いている私は、やっぱりそこそこ年齢を重ねてしまったのだなあと思うのと同時に、必要な時にきちんと教えられる人間でありたいです。


ま、その前に人のことを言ってないで、私自身が自分自身に気を配っていかなければならないなあと思うのでした。