「親ガチャ」という言葉に違和感を持てる人は幸せだということに気づいていない

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「親ガチャ」

 

とてもチープで乱暴な言葉。
それがこの言葉に対して感じた私の第一印象。
ただ、それはとても核心を突いていて、突きすぎているからこそ世間をざわつかせているのではないかと思った。

 

乱暴な言葉と思いつつも、私はその言葉に納得感しかない。
多分これは「毒とされる親」の元で育ったことがないと理解はできないだろうと思っている。
さらに言うと、先日つぶやいたツイートの通り、親ガチャを拡大解釈した「家族ガチャ」だろうなと勝手に思っている。

 

私の両親は既に離婚しているが、今でも健在。一昨年は実父の件で色々と事象が発生し気を揉み、その実務に当たった。
その時に感じたのが「自分勝手に生きた成れの果てがこれか…」という感じであった。

実母は「天真爛漫」を地で行く塊のような人で、悪気もなく言葉を発し、知らない内に自分ペースに巻き込むような、そんな人だった。今は穏やかになったというか、何というか…という感じなのだが、連絡を取る度、地は変わることはないのだなあと辟易する。

一つ下の弟は、今でこそ丸くなったとは思うが、幼い頃から「ケンカ」を隠れ蓑に、いわゆる「暴力」を私は受け続けていた。それは高校卒業し、実家を離れるまで続いた。(それ以降も全くなくなったわけではないが…)
今は私の精神衛生上、不必要に連絡は取らないようにしている。

 

物凄くエッセンスを詰め込み、端的に、かつ言葉を選ばずに自分の家族を著すとするならこんな感じだろう。

 


弟から受ける「暴力」は肉体的に傷を負うものも、言葉によるものもあり、惨憺たるものだったが、両親は露骨に暴力を振るうとかネグレストをされたとか、特にそういうわけではない。
しかし、弟からの「暴力」を「ケンカ」とみなし、どうにもできなかったため、放置されてしまったことは随分昔の話なのだが、今でもなお、暴力風景と共に鮮明に思い出す。

両親・弟ともに良くも悪くも「奔放」な気質を持っていて、それに私が合わなかった。
ただそれだけのことだ。
それだけのことなのに、私は「私の持った気質」のせいで疲弊し、打ちのめされ、振り回された。

 


中学三年の進学検討時には「進学なんてしないで働け」みたいなことを平気で宣う父親。
高校時代に進路選定時には、進学希望の私に「進学してどうするの?私にはわからん。そんなに勉強しないといけないの?」と今度は母親が宣う程、「進学」に対して無頓着な家庭であった。
そして何より家庭自体が貧しかった。
(弟については、特に何か言われた覚えはないが、彼の進路については進学することを私が強く勧め、奨学金で進学をした。後日談で弟本人から聞いたが、私が勧めなかったら就職をしていたらしい。)

 

この人たちに話しても無駄だし、自分がやりたいことをやろうとするならば、何がなくても自分でどうにかするしかない。そう思った私は、絶対に親が負担にならない進学方法を模索して「新聞奨学生」として進学をすることになる。
「貧しさと暴力と無頓着、そして不適合」の「家族ガチャ」から離脱することに(一旦)成功したのだ。

 

そんな感じで幼少期~思春期まで過ごしたこともあり、「親(家族)をガチャになぞらえること」に違和感は感じない。冒頭に記した通り、むしろ納得感しかない。

 

 

 

だから、私は「親ガチャ」について、このツイートをした。
ツイートについて少なからず反応頂けて、とてもありがたい気持ちになった。

 

ただ、「親ガチャ」という言葉の広がりにともに違和感を覚える人や忌避感や疑問、批判的な印象を持つ人も随分いるのだなという印象を受けた。正直驚いた。
人によって幸せの感じ方は違うし、恵まれたことばかりではないということを想像することはできるが、私にしてみればうらやましい限りの幸せな人々だなあと思う。
そしてこの感覚をこういうような類似経験をしたことがない人々には決して分かることはないと思っている。
そもそものスタートから違うので、「そうなんだ…」と思ってもらえることが関の山で、わかりあえることは決してないと思っている。

そう思っていても、そのように思われていると思うと苦々しく、その末に至極やるせない気持ちになる。

 

断言する。
私は「親(家族)ガチャ」が辛くて、どうにかしたくて努力した側の人間だ。

 

「親ガチャ」を嘆く人間が、全く努力をしないとでも思っているのだろうか。
それとも「親ガチャ」という言葉を引き合いに自分自身に起こる不幸を他になすりつけるように見えるのだろうか。

 


某TV番組でも取り上げられ、そこで若年者の意見が放送されていたが、それを聞いてみると、もっとカジュアルに使われているような印象を受けた。
「チープで乱暴」な「一過性の流行り言葉」とするならば、少し下品かなとは思うが、今の時代には悲しいかな、とてもキャッチーに聞こえてしまう。
カジュアルな会話上でネタ的扱いでその言葉が出てくるのならば、それはそれでその言葉を使える彼らは幸せなんだなあと思ってしまう。

 

ただ、そうではなく、実際深刻なのかもしれないとこの記事を読むと思う所もあるが、

gendai.ismedia.jp


世間の全ては私のように深刻にとらえているわけではないと思っている。

 


『深刻にならず、言葉に対して憤りや違和感を持てる人は至極全うで幸せであるということを自覚してほしい』

 

と、最後の最後に書いてしまうのは、私のわがままなのだろうか。
それ以上に努力をしてもなお、私が「家族ガチャ」から離れられずにいるのは、どこかで「そればかりでは無かった」という思いがあるからなのだろうか。

 

 


そんな何とも言い難いやるせなさを覚えながらも、たまたまお見かけしたブログに救われた気分になった。
このブログを紹介してこの話は一旦終わりにしようと思う。

topisyu.hatenablog.com